玄米屋(げんまいや)たいぞうのホームページたいぞうの想い

たいぞうの想い

            鯖江の田んぼ 

 

 私は玄米屋の経営を通じて、日々の食事を謙虚に考え、実行することの大切さ、そしてそれにより得ることが出来るであろう豊かな心と、より良い社会の可能性を、少しでも多くの人達に伝えていきたいと思っています。

 

 その手段の一つとして、ホームページやブログ上において、これまで様々な意見や持論を述べてきましたが、中には人にとって少々耳が痛くなるような話も多かったのではないでしょうか。

 

 私の持論を読んで「押し付け」と感じる方もいらっしゃるでしょうし、不愉快になる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 

「一度切りの人生、気ままに美味しく食べれるならこれほど幸せことはないでしょう」

「嫌いなものを無理に食べてもストレスになるだけですから、自然にありのままが一番いいのではないでしょうか」

という御意見を寄せられることもあります。

 

 

 世の中には、同様な御意見をお持ちの方々は決して少なくない、むしろかなり多いのではないかと察しますが、ただ残念ながら、私はそういった意見に同調、協調することは、全く出来ません。

 田んぼのタニシ

 もちろん、美味しい食べ物を食べることを、否定するというわけでは全くありませんし、それらを楽しめる事は素晴らしいことだと思っており、実際に私自身も美味しい食べ物を存分に楽しんでいます。

 

 しかしながら、「美味しい食べ物を食べることが幸せだ」などという意見や、「嫌いな食べ物を無理に食べればストレスになるから食べなくて良い」などという意見を容認することには、私は反対の立場なのです。

 

 そういった意見に対しての、私の主張を結論から言えば、「どのような食べ物でも美味しく食べることが出来ること、美味しく感じることの出来る心を持つこと、それが本当の幸せであり、特定の食材を食べることをストレスに感じない心と身体を持つこと、それこそが本当に良いことである」と言えるでしょう。

 

 たんぼ

 

 戦後の日本は、急速な経済の発展により、ほとんどの人達が食料に困ることの無い、非常に豊かな国に成長し、今もその豊かさを保ち続けています。

 

 その豊かさにあまりにも慣れすぎてしまったのか、私には現代人の「食」に対する感謝の心が、あまりにも希薄になってしまっているように思えてなりません。

 たんぼ

 只々、「食」における快楽の欲望を膨らませるばかりの姿が目立ってならず、「食」を提供する側である業界の人達もまた、その快楽の欲望を煽るような真似ばかりが横行しているように思えてならないのです。

 

 もしそうでないのであれば、私が推すような玄米食のスタイルや、旧来の日本の伝統食のスタイルも、もっと広がってもおかしくないのではないかと思うのですが、相変わらず「甘い、柔らかい、高脂肪、高カロリー」の食品ばかりが持て囃されているのが、現実の有り様のように思えます。

 

 まさしく、「食」に対する感謝が欠如しているからこそ、その様な風潮になるのでしょう。

 

 

 そういった風潮を見直し、次世代の人達により良い姿を魅せることが出来るように、私は玄米食というスタイルを持って、「食」への感謝の心を育む術を提供していきたいと思っています。

 (感謝の本質について、私なりの想いの過去記事がありますので、よければご覧下さい → たいぞうの想い48)

 

そういった行為の積み重ねこそが、真に豊かな社会を創り上げる礎になると信じています。

梅畑から望む日本海

 

 

 ただ、先にも書いたように、この様な意見は人にとって耳が痛いことでしょうし、押し付けと受け取られて反発されることも多々あるものです。

 

 自身の快楽を否定されることは、誰にとっても不愉快な事であるため、食の嗜好についてとやかく言うことは、あまりいい顔をされないのが実際の所です。

 

 しかし私は嫌われることも恐れず、自分の正しいと思う主張を堂々と伝えていくべきだと思っています。

 

 昔はたくさん居たであろう、厳しさの中にこそ本当の優しさと愛情のあった、「近所のカミナリ爺さん」の姿が、私の理想の姿なのです。

 

 そしてそれこそが私の、玄米屋たいぞうの「信念」と言えることなのです。

 

 

 

 

 

 色々な意見を”押し付け”の様に受け取る方もいますが、”躾(しつけ)”とは”押し付け”により身に付くものです。

西山公園にて

 

 子供のうちは”押し付け”こそが躾のために必要な事だと、私は考えています。

 

 そして、大人の方は”押し付け”を跳ね除けるのではなく、受け入れつつも、自分なりに「より良いカタチ」にさらに昇華させることが大事なことだと、私は思っています。

 

 この「たいぞうの想い」を読まれた方々が、これをきっかけに、 ご自分のより良い想いや考えをさらに昇華させていただくことが出来たなら、私にとってそれほど嬉しいことはありません。たいぞうのおじぎ

 

 

 

 

先日、福井県知事である西川一誠氏(平成21年現在)の著書である”「ふるさと」の発想”を読んでみました。

 「ふるさと」の発想

 

現職の知事が本を出すことは、全国的にも珍しいらしいそうですが、知事としての多忙な日々の中で、実際の職務の経験を元に、福井県のみならず地方、そして全国をどうやって元気にしていくか、その理念や行動を語った内容の本となっています。

 

西川知事の素晴らしい実績の一つとして、知事自身が提案し、実際に国の税制の中に取り入れられた「ふるさと納税」という税制がありますが、著書の中でも大きく紹介されており、国を変えるための手段の一つとして注目されているようです。

 

また、「ふるさと」という言葉は、著書の中で重要なキーワードとして大きく取り上げており、「ふるさと納税」をはじめとした知事の思想や理念には、ソーシャルビジネスの理念とも似たような所があるように、私は感じています。

 

西川知事は「ふるさと納税」をきっかけに、国のあり方を少しずつでも地道に変えていけるのではないかという思いを強くした、と著書の中で語っておられますが、なるほど私もソーシャルビジネスを初めて知った時には、同じような思いを抱いたものです。

 

 

ところで、西川知事は地域社会、ひいては日本を元気にしていくためには、「つながり」こそが最も重要な要素だと考えていることを本の中で語っていますが、その「つながり」とはいったい何を指しているのでしょうか。

 

 

日本は戦後、資本主義思想に基づき社会を構築してきたことにより、共同体としての活動の優位性は、徐々に個の活動により分解され、今では共同体としてのつながりは、「個」の活動の前に完全に屈服した感は否めません。

 

資本主義思想の下では、「個」の利益が最も重要視され、共同体としての利益(つまり共同体としてのつながり)は、個の利益の前に分解されてしまうことは必然と言えるのでしょう。

 

であるにも関わらず、今の社会システムで生きる私達が、その流れを無視し、過去のような「共同体としてのつながり」を創り上げようとするのであれば、必ず何かしらの歪みが様々なところで生じてしまうことは間違いないと私は考えます。

 

 

もちろん、だからといって、私はこの社会に「つながり」が必要ないなどと考えているわけではありません。

 

この本を読むと、西川知事は「個」の連携を重要視されていることが分かりますが、実は資本主義思想の下では、人は非常にオープンな存在になり、簡単につながることができる存在になるのではないかと、私は考えています。

 

ただし、極めてオープンであるが故に、簡単につながることが出来る分、簡単につながりを断つこともでき、また断たれることも多い、ということなのでしょう。

 

ですから、年配の方々は、自身達がつくり上げてきた強固なつながりのカタチが、最も心地よいつながりであり、あるべきつながりのカタチだと考えているのでしょうが、現代においての人のつながりは、様々な形で具現化されるものであり、例えば最近の若者であれば、携帯ツールなどを媒体とした「つながり」の形が、自身にとっては心地良かったりするのかもしれません。

 

つまり、現代の「個」の「つながり」の形は人によって様々であり、どのような形が「より良いつながり」であるか、などということは誰にも分からないものと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

しかし、そのような中で、皆が共通した形で持っているつながりが、実は一つだけあると私は考えています。

 

 

現実社会に生きる人々とのつながりを「横のつながり」と表現すると、それは「縦のつながり」と表現できるでしょう。

 

つまり、自分達の親、祖父母、さらには無数に遡ることのできる先祖達とのつながりです。

 

「横のつながり」の形や、つながり方は人それぞれでありますが、「縦のつながり」においては、誰もが同様なつながりの形を持ち、誰もが同様のつながり方を経て、今という時間に自分を存在させているのです。

 

また、横のつながりは目に見えるカタチであるが故に、実際につながることでしか、その存在を感じることができないことがほとんどですが、縦のつながりは直接的に見ることこそ出来ませんが、その気になれば、いつでもそのつながりを認識することが出来ます。

 

 

 

なぜなら、誰もが確実に無数のつながりを経て存在しているのですから。

 

なぜなら、無数に居た先祖の誰一人として欠けていたならば、自身の存在は無かったことになるのですから。

 

 

先祖を遡っていくことで、誰もが無限のつながりを知ることができるでしょう。

 

 

そして、何よりこのつながりが断ち切られることはありません。

 

 

 

このつながりを知ることこそが、自身のアイデンティティの確立であり、日本人としてのアイデンティティの確立にもつながり、「個」である私達現代人が今の社会の中において、より良く生きるための鍵となるのではないでしょうか。

 

また、このつながりこそが、私達が孤独というものに悩まされた際には、私達を支えてくれる存在になり、自身がどのように行動すべきか悩む時には、いつでもその指針を差し伸べてくれる存在になる、と私は思っています。 

 

 

たくさんの人達が今、未来を憂いつつも、どのように行動すべきか迷っています。

 

しかし、悠久のつながりの時の中で、私達が未来を想うことと同様に、無数の過去の存在たちもまた、より良き未来を想っていたことは間違いないことでしょう。

 

であるならば、この永い時のつながりと想いを認識し、その大きなつながりが紡ぎあげた大きな想いを胸に、西川知事の提唱するようなより良き社会、「つながりの共動社会」を、今こそ皆と共に創り上げていこうではありませんか。

 

 

 玄米屋たいぞうは、自身のもつ素晴らしいつながりを再認識し、皆と一緒に良き未来をつないでいきたいと想っています。

 

大沢博氏の著書

 

玄米屋たいぞうのお隣にあるお店で、非常に興味深いタイトルの本を見かけたので、お借りしてみました。

 

大沢博氏の著書、「食事崩壊と心の病」です。

 

 

この本の内容を大まかに説明すると、心理学者である大沢氏が、あらゆる精神疾患の原因として「食事」が強く関与しているのではないか、という仮説を立て、それらの検証をするために様々な事例を紹介していく、といった流れの内容になっています。

 

 

精神疾患には、うつなどの軽いものから、アルツハイマーや統合失調症などの重大な支障に至るものまで、様々なカタチがありますが、大沢氏は「現代食」が起因となる「低血糖症」こそが、それらの精神疾患の根本的な原因の一つではないかと睨んでいるようです。

 

様々な精神疾患の原因が、すべて食生活にあると決め付けるには早計ですが、精神疾患もアレルギーや糖尿病、ガンなどの現代病と同じく、様々な原因が複合的に絡み合って起こる出来事であり、その原因の重要なものとして、現代の食生活が挙げられることはまぎれもない事実だと、私も認識しています。

 

 

食べ物で心が変わる?と思われる方もいらっしゃるでしょうが、大沢氏の仮説はまず間違いなく的を得ているのではないでしょうか。

 

 

ただ、この本の内容は仮説を正当化させるために、あまりに一方的な事例の紹介と考察になっているため、普通の人にとっては、やや気が滅入る内容かも知れません。

 

大沢氏は、砂糖やブドウ糖などの精製された糖類や、白米などの精製炭水化物を、常日頃から摂取するような食生活が諸悪の根源だと言い切り、砂糖の摂取をやめ、未精製の米を中心とした食生活にしなければならないことを提唱しています。

 

しかし、今の自由を尊重する気風の社会の中で、一般のさほど健康に気をつかう必要のない人々にとっては、そのような食生活に変えるということは、やはり簡単な事ではないと私は思うのです。

 

 

氏は本の中で、科学的な見地からも非常に説得力のある推察を色々と紹介しており、論理的に考えれば氏の提唱する食事、食生活のスタイルにすることが、どれほどヒトにとって良いことであるか、理解できる内容となっています。

 

 

ただ、やはり人は感情の生き物です。

 

どれほど論理的に正しかろうが、目の前の快楽には負けてしまうのが大抵の人々の行動パターンであり、そして自分の選んだその行動を、他者に否定されることを不愉快に感じることも、やはり大抵の人々の行動パターンでしょう。

 

そして、自分にとって完全にマイナスになるような事象が起きてから初めて、それまでの快楽を手放すことを受け入れるようになるのが常であり、自分にとってのマイナスを、事前に予測した上での快楽の放棄は、そう簡単なことではないのが一般的な現実の出来事なのです。

 

 

そのように言ってしまうと、元も子もないように思われるかもしれませんが、そのような現実の出来事をしっかりと認識することが、まずは大事だと私は考えています。

 

 

精製された食物は、生き物にとって本能的な快楽を得ることの出来る食べ物であり、一度その快楽を経験すると、再度その快楽を得ることを強く欲求するものです。

 

この欲求は、誰しもが本能として持っているものですので、仕方のない欲求といえるでしょう。

(関連した内容の記事を、玄米屋たいぞう便りに書いています。ぜひ一読してみて下さい。)

 

 

しかし、ヒトは知性や理性といったものを持つことで、その欲求を「本能を超えた欲求」に変換することが出来るのです。

 

様々な知識を元に、本能による欲求や、また別のカタチの欲求である「本能を超えた欲求」が、自分の中にあることを理解し、そして理性により自分や未来にとって、より良い結果を導くための行動欲求を選択することが出来る生き物であるのが、ヒトという動物です。

 

 

 

自身の快楽を満たすことが幸せな事だと考えている今の社会においては、自分が美味しいと感じる食事、純粋に旨いと感じる食事を、自分が食べたい時に食べたい様に摂取することに、やましい事など何も無いのが至極当然、という風潮の世の中となってきています。

 

しかし、そのように多数の人達が本能の赴くままに食料を摂取したり、多数の人達が本能の欲求ばかりを刺激するような食品をプロデュースしていくことが、後々の自分達にとって、そして未来の子供達や、今の地球の環境にとっても、どれ程のリスクと悪影響があるものかを、たくさんの人達にしっかりと認識してほしいと、私は思うのです。

 

そのような思いから、人にとってより良い未来を創り上げるための手段や気付きを少しでもたくさんの人達に提供していきたいと考え、これからも玄米屋たいぞうの経営を頑張っていきたいと、今あらためて想っています。

 

 木村さんの奇跡のリンゴの本 

 

「無農薬でりんご畑を作る」という一大事に、挑戦しきった素晴らしい人物、木村秋則氏を紹介した本を読んでみました。

 

読み終えて思ったことはただ一つ、木村氏の経験したことを広く伝えることが非常に重要である、ということです。

 

 

できればこの本は、少しでもたくさんの人達に読んで欲しいものです。

 

それもできれば、小さな子供を抱えるお母さん方に是非読んで欲しい、と思っています。

 

なぜなら、この本を読めば、いかに現代人の環境が、人として生きるということにとって危ういものとなりつつあるかを、気付くきっかけになるのではないかと思うからなのです。

 

 

なぜ、たいぞうが、一般に白米ごはんと比べて、マズイと思われている玄米ごはんに、これほどこだわり続けているか、そして、たいぞうが玄米ごはんを通じて伝えたいことが、この本を読むことで理解することが出来るのではないか、と思います。

 

自分には圧倒的に経験が足りないため、いくら口で言っても説得力がない場合が多いのですが、木村さんならそのようなことはないでしょう。

 

自分が伝えたいことを書き出すと長くなるので、ここではあえて書きませんが、二つだけ言わせてもらうなら「自分にとって良かれと思ったことが、実はそうではないことが往々にしてある」ということと、「甘やかされた環境に置かれ続ければ、そのような環境でしか生きていけなくなってしまう」ということだけ、述べておきたいと思います。

そして、それは「食」においても例外では無いということも。

 

けっして「無農薬のりんごを食べることが体に良い」とか「無農薬の玄米を食べることが体に良い」などという、表面的な出来事を言っているわけではないことも付け加えておきます。

 

 

 人間に限らず、すべての動植物は自身が生きるために、他の何かの存在を自身に取り込まなければ、生き続けることは出来ません。

 

 特に人間という存在は他の生物よりも多くの、あらゆる動植物や無機、有機物質を取り込む能力を持つことで生物界の頂点に立ち、いま現在、地球上で最も進化した動物として存在しています。

 

 

 私はそんな人間の一人として、その存在を維持するために、これまでたくさんの他の存在を犠牲にし、今を生きています。

 

 

 先人の教え、私の親や他の大人たちは、その他の存在や食べ物に感謝しなさいということを、私の小さな頃から教えてくれました。

 

 しかし残念ながら、なぜ感謝しなければならないのか、感謝するとどうなるのか、それを私に明確に教えてくれる人はいませんでした。

(というよりも、教わる機会に恵まれなかっただけかもしれません)

 

 以前の私にとっては、「感謝」ということの本当の意味や、また「謙虚である」ということの意味を理解することは非常に難しく、自身の混乱すら及ぼすほどの問題でありました。

 

 

「食べること」「食べられるもの」に感謝する、”ありがとう”と言う、”いただきます”と言う

 

 「なぜそのような行為を行うことが大事なのか」、深く問い詰めても、以前の私には、その答えが見出せなかったものです。

 

 

 しかし今、私はある答えを見出すことに成功しました。

 

 

 もちろん、その答えが正しいとか完璧な答えだと思っているわけではありませんが、それでも今、私が持ちうる最善の答えだと思っています。

 

 

 いま現在、皆が様々な食品を手軽に手に入れることのできる、この日本という国は本当に素晴らしい国であります。

 

 なぜなら、自身が生きていくために取り込まなければいけない他の存在が豊富に存在し、苦労する必要なく手に入れることが出来るのですから。

 

 そのような状況を作り出してくれた先人達や過去の存在にどれほど感謝すべきことでしょう。

 

 

 しかし、感謝するとどうなるのでしょうか。

 

 ただ、「有り難う」と言えば先人は喜び、食べられた他の存在は私を許してくれるのでしょうか。

 

 私はただ言葉に出すことが本当の感謝だとは考えていません。その先にあるものが大事だと思うのです。

 

 

野球のトーナメントでの試合を例にとります。

 

勝負である以上、必ず勝者と敗者が現れます。(つまりは食べるほうと食べられるほうです)

 

トーナメントですので、勝者には次の勝負が待っているわけですが、そのとき負けた方はどのような気持ちでいるのでしょうか。

 

その勝者に対して「おまえなんか負けてしまえ」などと考えたりするのでしょうか?

 

 

私はおそらくは皆がその勝者を応援するのではないかと思うのです。

 

 

もちろん、その試合の内容やその敗者との試合の内容があまりに酷いものであったならば、そのようなことは無いかも知れません。

 

しかし、立派な試合をすることを心掛けていれば、敗者も必ず応援をしてくれるのではないか、味方になってくれるのではないかと思うのです。

 

であれば、常により良い試合を心掛け、敗者の心に応えた試合をするべきなのです。

 

 

食べられたものが自分の一部になり、自身の活力になってくれるのです。

 

その敗者、食べられたもののためにも、私たちはより良く生きなければなりません。

 

より良く生きることで、より良い未来を繋いでいかなければならないと思うのです。

 

この思いに至ったときに、私は感謝ということの本質の一端を、ようやく理解することが出来ました。

 

 

今の日本はあらゆる面で恵まれた国といえるでしょう。

 

 しかし、そこに住むたくさんの人達が「自身がどれほど恵まれているか」に気付かないまま生きているように私は思えてなりません。

 

 これほどまでに恵まれている状況であるにも関わらず、まだ今よりも良い食料があると信じ、健康志向の方も、そうでない方もあらゆる形でより良い食べ物を求めています。

 

 しかし、そもそも人間が食べることの出来る存在に、良い悪いなどということは無いと私は思うのです。

 

 どのような食料も自身の一部や活力となってくれる存在であり、感謝すべき存在なのです。

 

 私たちが今すべきことは、食料(敗者)に対して「良い」「悪い」と評価をつけるのではなく、自身の食べ方(試合のあり方)に「良い」「悪い」の評価をつけることなのではないでしょうか。

 

 そのように考えれば、今自分がいかに食べるべきか(いかに生きるべきか)が問われていることと、それに真摯に応えることが、本当の感謝であるということに思えてならないのです。

 

 そう考えれば、誰もが好き嫌いなどせず、あらゆる存在に慈しみを感じ、より良い食事のあり方を実行するということにつながると考えています。

 

 

 

 玄米屋たいぞうは、そのより良い食事のあり方を考える手段の一つとして「玄米」にスポットをあてているのです。

 

 私は本当のからだの健康というものを考えるとき、必ずしも体に優しい食事を摂ることが良いこととは考えていません。

 

 より強靭な肉体( この場合は主として内臓や生体内代謝活動能力などを指します )を手に入れるためには、むしろ体に優しくない ( この場合は苦い食べ物や硬い食べ物、酸っぱい食べ物など人間が本能的に嫌う食物を指します )食物を摂ることの方が重要と考えています。

 

 もちろん、常にストイックな食事を摂り続ける事を推奨するわけではなく、程度というものがあることは言うまでもありません。

 

 

 ただ、誤解の無いよう申しますと、玄米屋たいぞうが見つめ提案していることは、人の長期的な生活の質の向上といった所や、子供達のより良い未来を考える所にあります。

 

そして、その対象は主として子供であったり、その親であったりするのです。

 

ですから、高齢者の方や現在ご病気中の方などに、そのようなストイックな食生活を提案しているわけではありません。

 

 

 そもそも現在の高齢者の方などは若かりし頃、私が想像もつかないような貧困の中で、毎日の食事に常に不自由していましたので、食べ物をえり好みなどせず、手に入るあらゆる食物を食べて生きてきたという事実があるのです。

 

 ですから今の高齢者の方々は、若年のときに強靭な内臓や代謝能力を作り上げ、そして高度経済成長により栄養状態が改善されてきたために長寿で健康な方が多いのではないかと私は推測しています。

< 関連記事はこちら>

 

 

 若かりし頃に散々の苦労をされてきた高齢者の方々に、なおもストイックな食事を提案する、などということは私にはとても考えられません。

 

 高齢者の方々には今こそ、思う存分好きなものを、体に優しい食べ物を食べていただきたいと思っています。

 

 

 私が憂いていることは、今を生きる子供達やこれからの子供達、そして高度経済成長とその崩壊の混乱の中でアイデンティティを見出すことにさ迷っている、その親の世代の人達のあり方なのです。

 

 肉体が完全に成長してしまってからでは改善が難しく、病気になってからでは遅いのです。

 

 

 欲望の赴くままに生きるのではなく、いかに欲望をコントロールし生きるか、これが現代に生きる我々に必要な知恵なのではないかと私は思っています。

 

 玄米屋たいぞうはいわゆる健康食品のお店とは自分では思ってません。

 

 より良い未来を子供達のためにつないでいきたいという欲望をかなえるためのお手伝いをする店でありたいと考えています。

 

 どういうことか?

 

 以前も”玄米屋たいぞうの想い16”にて説明したことがあるのですが、私の目指すところは、人としての長期的な視野での生活の質の向上を考える、いわゆるコンサルタント的なところがあります。

 

 玄米という商品は、コンサルのひとつの手段として取り入れています。

 

 

 いま出回っている健康食品とは、すべからく個人の欲望を叶えるための商品であるといえるでしょう。

 

 しかし、その欲望はけっして未来を見据えた欲望ではありません。

 

 その瞬間の欲望であったり、せいぜい自分の一生の時間を満足させるための欲望である場合が多いといえるでしょう。

 

 そのような個人の欲望ばかりを叶える商品が、より良い未来をつないでいくための商品になるとは私にはとても考えられません。

 

 ですから、玄米屋たいぞうが健康食品の店だと思われることは心外なのです。

 

 玄米屋たいぞうは、単純な個人の欲望を叶える手伝いではなく、より良い未来を子供たちのためにつなぎたいという欲望をかなえるお手伝いをする店でありたいと思っています。

 

 

 今の世の中は、より多くの商品を売るがために、また広告などがより多くの人の目を惹くようにするために、様々な情報が溢れかえっている状況であります。

 

 そしてそのような状況の中で、個人の欲望をより叶えることのできる商品がもっとも信頼され、ますますと安価になり市場を席巻していきます。

 

 例として、携帯電話やコンビニ、外食チェーンの台頭などが挙げられますが、このことは自由市場原理、資本主義のルールに法っている以上は、決して覆ることのない現象であるといえるでしょう。

 

 もちろん、世の中の人達がより便利な生活を享受できる様になる上で、そのルールを覆す必要などはないと思いますが、「食」の分野でこれ以上自由市場原理のまま、個人の単純な欲望のままに突き進むのは非常に危惧することと私は考えています。

 

 

 私がまだ小さな子供であった約30年前には、今ほどに高カロリーで栄養豊富な食料が、いつでも手に入るような環境ではありませんでした。

 

 しかし今では、簡単に豊富な栄養を摂取できる様々なサプリメントや、非常に味覚に刺激性の強い食物、高脂肪、高カロリー、例えば菓子パンなどの噛む必要のほとんどない柔らかい食べ物といったものが市場を席巻し、しかもそういった商品ほど安易に手に入れることが出来ます。

 

 あらゆる食料が「個人の瞬間の欲望をかなえる為のより良い商品」として変化し、市場を席巻しているのです。

 

 しかも、これほどそういった商品が飽和している状況であるにも関わらず、まだその欲望をあおり続ける商品が増え続けることを、私達は憂わなければなりません。

 

 生まれたときから人間の欲望を必要以上に満たす食料に恵まれ、それらを摂取しながら生きる、今の子供達に近い将来起こりうることを、私達は憂わなければなりません。

 

 

 アレルギーやガンなどのあらゆる文明病は、人が満たされ続けたことにより起こる病気です。

 

 満たされ続けたことにより、人としての肉体の機能が脆弱化したことにより起こる病気なのです。

 

 最早、我々は満たされ続けることの危険性を認識しなければなりません。

 

 

 分かりやすい例として宇宙空間での出来事を挙げますと、宇宙飛行士の若田さんが宇宙空間での長期滞在にまさに今チャレンジしている最中ですが、肉体が無重力状態に長い間さらされ続けると、無意識下で骨の必要性を感じなくなるため、どんどん骨の密度が小さくなり骨粗しょう症になってしまうということがあります。

 

 重力というストレスがない恵まれた環境においては、丈夫な骨というものは必要でなくなってしまうのです。

 

 もし、そのまま重力というストレスのない状況で過ごし続けることが出来たとしても、おそらく様々な弊害が肉体などに起りうるでしょう。

 

 また、骨密度の減少を避けるために、さらなるカルシウムなどの栄養を接収するということは、本来の人の営みの上で必要以上のエネルギーを要求することになります。

 

 ストレスから開放されることで、より必要以上のエネルギーを欲するということは、質量保存の法則に基づけば、未来世代にその”つけ”をまわしていることに他なりません。

 

 このような例から考察しても、ストレスから開放されるという満たされた状況が、必ずしも人間にとって良いことではないということが、改めて認識できるのではないでしょうか。

 

 

 今の日本は最早すでに、あらゆる欲望を満たすための「食料という名の商品」で溢れかえっています。

 

 言い換えれば、あらゆるストレスを感じさせない商品で溢れかえっているといえるでしょう。

 

 しかしこれまで説明したように、食の分野においては、これ以上人間の体にストレスを与えない食品ばかりが増え続けることは非常に危険であるといえるのです。

 

 私は今こそ適度にストレスを与える食品が重要と考えています。

 

 そして未来に残すべき地球環境をも考えたとき、より少ないエネルギーで人が充分な栄養を摂取できる食品が脚光を浴びるべきでしょう。

 

 より少ないエネルギー(カロリー)で肉体の形成に必要な栄養を含み、咀嚼といった顎の筋肉への負荷や、消化器官である胃腸への適度な負荷を与えることのできる、古代の日本人が二千年以上もの間食べ続けてきた玄米という食料に、私はより良い食のあり方を見出すための手段の一つとして可能性を見出しているのです。

 

 玄米屋たいぞうとはその想いを具現化するために創ったお店なのです。

 

 

  食文化のあり方というものを考えるときは、過去と現在、そして未来をしっかりと見つめる必要があります。

 

 私達日本人がこれまでどのような食生活を営んできたのか?

 

 そして今どのような食生活を営んでいるのか?

 

 これから生きる人達はどのような食生活を営んでいくべきなのか?

 

 私は今、過去と現在をしっかりと見つめることで、次世代に伝えていくべき食文化のあり方を見出すことに意義を感じています。

 

 

 日本は約50年前より、自由市場原理に基づいた資本主義社会の形成を歩んできたため、物質的な繁栄を飛躍的なスピードで果たすことに成功しました。

 

 人間の欲望を最も効率的に満たす手段が資本主義だということなのでしょう。

 

 資本主義の定義では、あらゆる事象において、あくまでも一人の人間の欲望の追求を優先させます。

 

 つまり、複数の人間の集まりであるコミュニティの欲望をかなえるということは、一人の人間の欲望をかなえることの前には屈服してしまうというのが資本主義の前提であります。

 

 現代の日本は「食」のシーンにおいても、個人の欲望を最も満足させることのできる商品やサービスで溢れかえるようになりました。

 

 そしてそのような商品、サービスは市場原理の中で、まだまだ増え続けることでしょう。

 

 あくまでも「個人の欲望を満足させるもの」が優先して市場を席巻するのであり、コミュニティの欲望を満足させるような商品やサービスは、個人の欲望の前には隅に追いやられてしまうのです。

 

 コミュニティを日本という国で考えたとき、日本人全体がより良く生きることのできる「食のあり方」をどれほど提案しようとも、市場原理においては、個人が欲する「食」がもっとも優先させられてしまいます。

 

 市場原理と飽食の文化の中で、人の本能をただ満たすことのできるハイカロリーな食物、柔らかい食物、甘い(旨い)食物がもっとも脚光を浴び、非常に安価に、そして何時でも手軽に手に入れられるようになったのです。

 

 私は資本主義をただ否定しているわけではありませんが、「食」の分野については、これ以上資本主義主導のままに歩み続けるのは、世代間コミュニティの崩壊を招くのみと考えています。

 

 

 「食」について、世代でコミュニティを考えると、子々孫々に「より良い生き方」ができるような「食」を残すことがコミュニティとしての欲望になります。

 

 つまり子供達が健やかに育ち、より良い肉体を形成し、次の世代にさらなる進化を繋ぎ、永く健康でいることの出来る様な「食」を欲することがコミュニティとしての欲望になるのです。

 

 おそらくほとんどの人たちがこのような欲望を持って生きていると信じたいのですが、市場原理と資本主義思想の前では「より美味しい食」や「より手軽に摂取できる食」を欲するという個人の欲望のほうが優先され、その欲望を叶えるための商品や手段が市場を席巻してしまうのです。

 

 

 このような今の日本の状況を踏まえた上で、玄米屋たいぞうが考える次世代に伝えていくべき食文化を述べたいと思います。

 

 

 玄米屋たいぞうはこれまでずっと本当の意味で人に喜んでもらえるようなサービスを提供できるよう、考え続けてきましたが、おそらく個人の欲望とコミュニティとしての欲望の両方すべてを叶える手段は無いといえるでしょう。

 

 個人の「今食べたいものを食べる」という欲望は、決して未来を見据えたものではありません。

 

 まずひとつ、人間がより美味しい食べ物、より旨い食べ物を求めることは、より多くのエネルギーを必要とすることに他なりません。

 

 玄米屋たいぞうの想い16でも述べたように、質量保存の法則に基づくと、より多くのエネルギーを必要とするということは、その代償としてその分の何かを捨てなければならないということがあります。

 

 もうひとつ、食べ物を獲得することが、より便利になるということは生物として怠惰になるということです。

 

 若年の頃から、噛む必要の無い様な柔らかい食べ物ばかり摂取し続けたり、サプリメントなどの直接的な栄養の摂取を続けることは、生物としての退化を促します。

 

 以上のようなことから、より少ないエネルギーでより良い生を得ることの出来る「食」のあり方を考えることや、肉体にある程度のストレスを与える食事をすることが重要であると私は結論付けました。

 

 

 赤ちゃんに大人が食べるような苦い食べ物や酸っぱい食べ物をちょっと舐めさせたりすると、とたんに泣き出したり、嫌な顔をしたりします。

 

 しかし砂糖水を舐めさせると笑顔で嬉しそうな態度をとります。

 

 これが本能レベルでの欲求の違いです。

 

 本能の欲求に忠実であるということは、ただ幼稚であるということといえるでしょう。

 

 春の味覚の一つであるふきのとう。

 

 とてもアクがつよく苦いので私は子供の頃は嫌いでしたが、様々な食体験を経て、今の私の好物の一つに挙げられます。

 

 つまり本能においては苦い食べ物というのは敬遠されるものですが、それを乗り越えたことで苦い食べ物からも栄養を摂取することが出来るようになったのです。

 

 

 本能を乗り越え、様々なものを摂取することが出来る雑食性の生物に進化したからこそ、人間は生物界の頂点に立つことができたのです。

 

 本能を乗り越えたところに喜びを見出すことが出来るからこそ、生物としてのより良い進化を果たすことができたのです。

 

 昔からの伝統食を未来に残すという具体事例だけではなく、精神的な文化を伝えていく、それが今のたいぞうが考える食文化のあり方です。

 

 

 玄米屋たいぞうは本能を乗り越えたところにある喜びを見出し、その喜びを伝えることでより良い文化を後世に伝え、子々孫々のより良い繁栄をもたらすことが出来るようなサービスをこれからも考え続けていきたいと思います。

(同様の記事とのリンク)

 

 

 

 「食べる」ということはすなわち「生きる」ということです。

 

 人間など動物の場合は食べるという行為で、なんらかの他の生命を自らの体内に取り入れ続けなければ生命活動を維持することが出来ません。

 

 さらに人間には、より良い生命活動を維持し続けるためのモチベーションとして、生きることへの喜びが必要不可欠です。

 

 ”生きることの喜び”というものは十人十色ではあるでしょうが、共通する根源的な生きることの喜びとして”食べる喜び”というものが揚げられるでしょう。

 

 美味しい食べ物を食べたときにほとんどの人は「おいしい!」と喜びます。

 

 美味しい食べ物を摂取したときに、人間の脳という臓器が快楽物質を分泌するのです。

 

 なぜそのような分泌活動を起こすのかというと、それは肉体にとって、より都合の良い食物を摂取するための本能があるからです。

”玄米屋たいぞうの想い40”にてこの本能について触れています)

 

 基本的にはこの本能に従い、満たすことで肉体をより良い状態におくことができます。

 

 ですから美味しいと感じることのできる食事をする、続けるということは、心にも体にも非常に良いことだといえるでしょう。

 

 しかしながら、生物としての1個体だけをみれば、本能を満たす食事を続けることが良いということになんの異論もありませんが、自身の遺伝子を次世代につないでいくということや、自分の子々孫々たちのより良い進化などということを考えたとき、本能を満たす食事を続けるということが良いなどとはけっして言えなくなってきます。

 

 常に本能が満たされている、ということは現状を変える必要がないため、そのときから生物としての退化が始まります。

 

 生物としてより良い進化を遂げるためには満たされていてはならないのです。

 

 常に何か足りないという状況でなければ、足ろうとするために良い進化を果たすことはありません。

 

 生きるということは、つないでいく事でもあると私は考えています。

 

 決して私達一人だけで生きているわけではありません。

 

 私達の祖先たちがずっとずっと遥か遠い昔から脈々と様々な進化を遂げながら、今の私達が生きています。

 

 そして次の世代に、より良い進化と共につないでいかなければならないと私は考えます。

 

 自分に子供がいようがいまいが、次世代により良い進化をつないでいかなければなりません。

 

 

 今の日本は食料自給率が低いことが問題とされていますが、日本人の食料供給の内容は完全に飽和しています。

 

 であるにも関わらず、相変わらずカロリー重視、旨さの追求といった食料が市場にはびこる現状を私達は憂わなければならないと思っています。(だからこそ食料自給率が低いということもあるのでしょう)

 

 先進国に生きる私達は食料についても他国の手本となるような文化を作り上げていく姿勢が必要だと考えています。

 

 食事を美味しいと感じ、楽しむことはより良く生きることとして非常に有意義なことですが、ただただ本能の赴くまま楽しむのではなく、本能を超えたところを楽しむすべを持ってみてはどうでしょうか。

 

 それが次世代にバトンを渡す私達に求められる品性のように想います。

 

 次回、玄米屋たいぞうの考える次世代に繫いでいくべき食文化について述べたいと思います。

 

 

 
玄米食のメリットの一つに高い毒素排出効果を挙げることができます。
 
 
玄米および発芽玄米には豊富な不溶性食物繊維やフィチン酸が多く含まれ、パラオキソナーゼ(PON)の活性を高める効果があることなどが、人間の体内の毒素の排出を促す要因になります。
 
 
そこで疑問に思われるのが毒素って何?ということではないでしょうか。
 
 
毒素とは人間の体のシステムに害を及ぼす因子(化学物質)を指しますが、それは大きく3つに分けることができます。
 
 
それには外因性のもの、内因性のもの、自家製のものとがあります。
 
 
外因性の毒素にはタバコの煙や薬物、刺激性の飲食物、排気ガスや悪性の環境ホルモンなどが挙げられます。
 
 
内因性の毒素にはウイルスや細菌による感染などで生じた毒素や、一部の腸内細菌の代謝により発生した化学物質などがあります。
 
 
自家製の毒素とは自らの身体で営んでいる代謝活動において副産物として自らつくり出してしまうものを言います。
 
 
健康で活力のある状態においては、体は毒素をはねつけたり、体内で作り出した毒素を排除する機構が働きますが、活力が衰えると毒素が蓄積してしまい、体は様々な不調を発生します。
 
 
さらに慢性化したり重症化してくると頻繁に風邪などの病気にかかりやすくなり、またガンやアレルギーといった自己免疫性疾患へと発展する可能性が大きくなります。
 
 
このような情報を得ると「毒素をいかに排除するか?」とか「毒素のない生活を心掛けなければ!」というように考える人がほとんどですが、ちょっと待って下さい。
 
 
毒素を避けることにあまり神経質になり過ぎるのも問題です。
 
 
そこで順番に考えて見ましょう。
 
 
まず自家製の毒素については、自分ではどうしようもありませんので避けようがありません。
 
 
というよりも、人間が長い進化の果てに手に入れた代謝システムの結果に発生するものであり、それを処理する能力も進化の途中で身に付けていますので基本的にどうこうしようと考えることが間違いです。
 
 
身体の活力が落ちたときに自浄能力も落ちますが、この場合は毒素うんぬんよりも身体の活力を正常に戻す努力をすべきなのです。
 
 
続いて内因性の毒素ですが、これも基本的には自身の活力を常に正常に保つ努力をすることが大事で、大抵は自然に排除されます。
 
 
しかし、食生活の改善により腸内の細菌構成が人間の体により良いものになることで、毒素の発生量が減少することが確認されています。
 
 
腸内の良好な細菌構成は発生する毒素の減少の他、人体に様々な有益な報告がなされていますので、乳酸菌を多く含む食物を摂取することは大いに推奨すべきことでしょう。
 
 
問題は外因性の毒素です。
 
 
タバコの煙や排気ガス、様々な食品添加物、悪性環境ホルモンなど現代社会では空気や水、食べ物などいたるところに人間自身が作った毒素が溢れています。
 
 
通常は人間の体は長い年月をかけて進化していくことで、それらの毒素に対する抵抗力を身につけていくのですが、あまりにもハイペースで環境が悪化しているため、さらには人間の自浄能力が甘やかされた環境に置かれてきたことで退化しているために、様々な病気を招く結果になっています。
 
 
これらの毒素による病気に打ち勝つためには、幼少の頃からそれなりに厳しい環境で育てることで体の自浄能力を高め、あとは排気ガスやたばこの煙、環境ホルモンなど決定的な有害毒素を避けることが考えられます。
 
 
あと出来る事は、常に水を摂取することにより腸内や腎臓に毒素の沈着を防ぐことや、玄米などのようなキレート作用のある食物を摂取することで毒素排出を促進したり、発芽玄米のように人の体の自浄能力を高める物質を多く含む食物を摂取することなどがあります。
 
 
すさまじいまでのスピードで発展した社会の裏にある、この環境の問題をみなさんも真摯に考えてみてはどうでしょうか。
 

 

 アレルギーは遺伝するといいますが、人の初期の体質はすべて遺伝子情報に左右されるので、親のアレルギー体質が高い確率で子に遺伝することは間違いないでしょう。

 

 しかしアレルギー体質を引き継いでも、その発症レベルは本人次第です。

 

 そもそもアレルギーとは誰もが何かしら持っており、アレルギーのない体質の遺伝子をもつ人はいないと言われているくらいであります。

 

 ただその発症レベルは幼児期においてそれぞれが置かれたある環境に大きく左右されることが、近年ドイツの研究チームにより明らかになりました。

 

 それは先進国において花粉症などのアレルギーに悩まされる人々がこれだけ多くなった背景には、幼少期における環境が清潔であったことが最も有力視されるというものです。

 

 とはいっても、花粉症などのアレルギーは多因子疾患であり、複数の原因により発症する病気であります。

 

 不潔な環境で育った人が花粉症を発症しないというわけでもありません。

 

 ではどうすれば花粉症などアレルギーの恐怖から逃れることができるのでしょうか。

 

(その前にまず断っておきますが、成人してから発症したアレルギーが自然治癒することはほとんどないといいます。それと今から述べることはまだ仮説の段階のものです。完全な裏づけはまだとれてはおりません。)

 

 アレルギーとは自己免疫の不全、または過剰な反応により発症する病気であるため、何よりも自分自身の体の中の能力を高める努力をすることが第一です。

 

 そのためには幼少期における環境を適度に不衛生な状況にすることが有効です。

 

 具体的には殺菌成分の強い洗剤は使用しないといったことや、手洗いやうがいなどを徹底し過ぎないこと、さらには犬や猫などがいるところや託児所などで細菌感染の回数を増やすなどといったことが挙げられます。

 

 また赤ちゃんを母乳で育てることはもっとも重要であります。

 

 人工のミルクを与えることは素晴らしく栄養価の高い、衛生的な食事を与えていることでしかありません。

 

 イコール良過ぎる環境で育てていることになります。

 

 さらに幼児期においては、あらゆる食べ物を体験させることが大事です。

 

 偏食を許さないことが、早期に強靭な代謝システムを形成する要因になります。

 

 このような環境を体験させることにより、より優秀な肉体を手に入れることができるのです。

 

 初期の段階であまり肉体を甘やかしてしまうと、それが普通と認識してしまい、人としての能力の進化を妨げることになるのです。

 

 ただ気をつけて欲しいのは、甘やかしすぎるのが良くないのは肉体であって、心は十分すぎるくらいに甘えさせてあげてください。

 

 幼少のときに存分に甘えさせてあげることは、子供自身が存在の正当性を認めることを育む重要な行動なのです。

 

 

 

 

 

 

 

現在の日本国民の平均寿命は女性が約86歳、男性が約79歳と、日本人は全世界で最も平均寿命が長い民族であります。

 

しかし今生きている我々がこの平均寿命まで生きる保証などは、どこにもないと私は考えています。

 

過去60年より統計のある平均寿命は、先進国すべてがきれいな右肩上がりのデータを示していますが、このデータはどこまで右肩上がりを続けることが出来るのでしょうか。先進国の平均寿命の推移

 

世界の先進国すべてにおいて平均寿命が延びている背景には、いくつかの要因が考えられます。

 

それらの要因とは、先進国において国民一人当たりの所得(GDP)が向上したこと、伴って医療技術の発達およびそのインフラの整備の向上、新生児の死亡率の低下、栄養状態の向上などの項目があげられます。

 

これらの事実により先進国での平均寿命が右肩上がりを続けているのです。

 

そこでこの要因を検証してみます。

 

”医療技術の発達” これは平均寿命の向上に最も寄与している要因といえます。

 

医療技術の発達が”新生児の死亡率の低下”にも貢献しているので、”医療技術の発達”の益々の向上が平均寿命の益々の向上に貢献することは疑いようもありません。

 

”国民一人当たりの所得の向上”により、それぞれの国民がより高度な医療サービスを受けることができたり、インフラの整備の向上に貢献したり、より良い栄養状態を保つことができます。

 

したがって”一人当たりの所得(GDP)の向上”も平均寿命の向上に貢献していることに疑問はないといえるでしょう。

 

しかし私が疑問をもつのは”栄養状態の向上”が本当に平均寿命の向上に寄与し続けるのかという点です。

 

今、日本で70歳、80歳、90歳、100歳の人たちの60年前の栄養状態は、けっして現在のような状態ではありませんでした。

 

60年前に比較的裕福だった国である欧米や西欧諸国の人々の平均寿命と、60年前にとても裕福な国とはいえなかった日本の人々の平均寿命を比べれば、栄養状態の向上がそのまま平均寿命の向上に寄与しないということがお分かりになるのではないでしょうか。

 

「いや、日本の食生活が諸外国と比べてそれだけ優れている証拠だ」という学者もいます。

 

なるほど、私達の祖先が長い間培ってきた食生活は我々日本人の身体にあったものであることには異論はありません。

 

しかし現在の日本の食生活が優れているようには私にはとても見えません。

 

欧米の自由市場主義の煽りを受けて、より美味しいもの、より旨いもの、より本能が満たされるものばかりが市場にはびこり、我々の祖先が培ってきたものは市場の片隅どころか完全に追いやられているのが実情です。

 

私のまったくの推測ではありますが、ここに断言します。

 

今の日本の長寿の人々は、飢餓の状況でも生き延びることのできる強靭な肉体、遺伝子を引き継ぎ、自身も若年のときに貧しい栄養状態であったことにより、より生物として進化した肉体を構成することに成功しました。(この場合の肉体は外見から判別するものだけでなく、内臓や体内で様々な化学反応を発生する能力をもつ肉体を指します)

 

そのより進化した肉体が、自身が生きていく過程において栄養状態が改善されてきたことにより長寿を全うしているということなのです。

 

したがって、せっかく祖先から受け継いだ遺伝子を、若年のときから過剰な栄養状態を保ったために眠らせたまま生物として退化ともいえる肉体を構成してしまった我々が、いくらより良い栄養状態を保ったところで今以上の長寿を栄養改善により手に入れることはないといえるでしょう。

 

それどころかさらなる栄養状態の改善(のつもり)が、ガンを筆頭としたさらなる成人病を頻発させるだけなのです。

 

おそらく昭和10~20年代生まれの人々までが平均寿命の向上に貢献できる限界でしょう。

 

現在の過剰な栄養状態というものは、我々が生きる環境の問題の一つでありますが、その他の環境問題として過剰な衛生状態というものもあります。

 

生まれたときから清潔すぎる環境におかれることにより、祖先から受け継いだ優秀な免疫システムが過剰に働いてしまうことで様々なアレルギーなどの病気を引き起こしてしまうことがあります。

 

花粉症はその最たるものの一つでしょう。

 

過剰な衛生環境によるアレルギーは現在、文明病として広く認知されるようになりましたが、過剰な栄養状態による病気はまだ広く認知されていません。

 

未だに、より良い栄養を摂ることにより改善されると考えている人々が多数を占めているのが現状です。

 

私は次世代により良い未来を残すために「食」をテーマに様々な角度から、より良い手段を模索し提案していくことをライフワークにしています。

 

その中で、今の日本の飽食といえる状況に非常に危機感を持っています。

 

次回、「たいぞうの想い42」にて花粉症を例にとり、今の食のあり方をどう変えていくべきなのか述べたいと思います。

 

 

 

 食べることは動物の根源的な欲求です。

 

 動物が生を持続するためには、特殊な例を除き他の物質を食べ続けなければなりません。

 

 そして人間などの動物は各々が食べる食物の嗜好性に違いを持ちます。

 

 その嗜好の違いは基本的には、各々がより効率よくエネルギーを吸収できる食物を好むというものです。

 

 一般的に、柔らかい食べ物は自身のエネルギーをあまり消費せずに取り込むことが出来るために好まれます。

 

 甘い食べ物はブドウ糖で構成されることが多く、人間の脳内で使用されるエネルギー源はブドウ糖のため、特に人間は甘い食べ物を好みます。

 

 脂肪は他の物質よりも多大なエネルギー源となるため、やはり好まれる場合が多いようです。

 

 これらの嗜好性は本能によるところがほとんどであり、意識でコントロールするのは至難の業であります。

 

 そして動物が己の生を維持するために持つこの本能は、今の日本の飽食文化においては非常にやっかいなものなのです。

 

 あまり意識している人はまだ少ないのですが、今の日本人などの先進国に生きる人は常に食べ過ぎています。

 

 通常は食べ過ぎる前に、食べたいという本能を抑制する本能が働くのですが、あまりにも食べたいという本能を刺激する食べ物がまわりに溢れすぎているのです。

 

 先の甘いものや柔らかいもの、脂肪分の多いものもそうですし、旨み調味料などもその一つです。

 

 化学調味料とも呼ばれていますが、サトウキビなどから作られるため化学なんて呼び方は心外だというメーカーの意見があります。

 

 しかし本来それほど旨みのない食物に合成的に作られた過度な旨みを添加することで、自然の状態であれば食べ過ぎることのない食べ物も食べ過ぎてしまうということが往々にしてあります。

 

 アメリカなどではベビーフードに添加することを禁止していますが、それほど本能のタガを外す食品といえるのです。

 

 食べすぎは身体に良くないということは多分ほとんどの人たちが認識はしていると思いますが、なぜ良くないか考えたことはあるでしょうか。

 

 なぜの答えにはいくつかのものがありますが、先進国に生きる人々にもっとも重要な答えはガンでしょう。

 

 ガンは生体内に異質な細胞が増殖することを指しますが、異質な細胞が生まれる背景の一つに活性酸素の存在があります。

 

 活性酸素というものは体内に異質な存在を取り込む際に生まれる物質です。

 

 生体内反応で必要な物質であり、食物などの異質な存在を同化する際に使われる物質ですが、発生しすぎるとその分自分の細胞を傷つけてしまうことがあるのです。

 

 そのため自己細胞が変異し、ガン細胞に変化するといった具合です。

 

 私はこの事実を目の当たりにし、より良い食生活を送るための手段を提案し続けることに意義を持つようになりました。

 

 食べたいものを食べない、食べたくないものを無理に食べるといった行動も問題はありますが、自由資本主義社会を背景として必要以上に煽られている食のシーンをもう一度見直すことから始めてはどうでしょうか。

 

 

川北義則氏の著書

 今日はこの2冊の本を一気読みしてみました。

 

 川北義則氏の考える”男のあるべき姿”の観念がぎっしりと詰まった本であります。

 

 いろいろと感心させられる内容がたくさんとありましたが、その中で私が最も興味深かった内容が「男は幸せなんか求めなくていい」というものでした。

 

 いわく、「自分の幸せを求めるのではなく自分の周囲の人間、自分と関わりをもった人間がハッピーになるのを手助けすることが本当の男の生き方のように思える」とのことです。

 

 そして、「誰もが自分の幸せを追求してばかりいる社会では自己中心的な世の中になってしまう、実際になってしまっている」と川北氏は嘆いています。

 

 しかしながら、近代経済学、新自由主義の思想においては、人は自らの利益を最大化することを目的とした存在であると定義されています。

 

 近代経済学の発想においては「他者のために尽くしたい」というような考えは非合理なものとして排除されるのが通常です。

 

 利潤追求という大義名分の前では、そしてグローバル資本主義という市場競争原理の前では、人間同士の社会的なつながりなどは非合理的な思想として排除されてしまうものなのです。

 

 ただ、私は川北氏の考えるような生き方を歩みたいと望んでいます。

 

 「武士は喰わねど高楊枝」という言葉がありますが、どんなに自分の腹が空いていても、目の前にお腹を空かせる子供がいるなら迷わず食べ物を差し出すことの出来るような人間になりたいと望んでいます。

 

 そして、川北氏の著書を読みながら、思春期のときに大好きだった言葉を思い出しました。

 

 「男は強くなければ生きていけない。しかし優しくなければ生きる資格がない。」

 

 レイモンド・チャンドラーの有名な言葉です。

 

 いつでも格好いい男でありたいと、そしてそうあるために強くやさしい人になる努力をしたいものです。

 

 

私の父親は大野市の生まれで8人兄弟の末っ子でした。

 

田舎育ちですので、よく近所の山や川で遊んでいたそうです。

 

兄弟達とは歳が離れていたので一人遊びが多かったらしいですが、一人遊びといっても雄大な自然という遊び相手があったようです。

 

私も子供のころ、父親にいろいろと自然との遊び方を教えてもらったものです。

 

残念ながら、あの時教えてもらった遊び方はほとんど覚えていないのですが、それでも山や川や海や原っぱで遊んでもらったことは今でもハッキリと記憶に残っている、私の財産であります。

 

私の父親の父親、つまりお祖父さんも山師であり、何度か一緒に仕事場に連れて行ってもらった記憶があります。

 

お祖父さんが仕事を終えるのを待つ間、渓流のよどみで泳いで遊んだり、泳いでいる魚と戯れたりして遊んでいたものです。

 

「たいぞうの想い36」でも語りましたが、日本人という民族は何千年もの昔から小さな島国で暮らしてきたため、西欧諸国や欧米、大陸の人々と違い、その小さな島の中であらゆるものと共に生きていくという素晴らしい感性、観念を培ってきました。

 

西欧諸国や大陸に住む人々は、他民族が多数存在する広大な土地があったため、自然と共に生きるという考えではなく ”いかに土地を(自然を)征服していくか”という考えであることがほとんどだそうです。

 

つまり、我々日本人が脈々と受け継いできた精神は、欧米の人たちとは一線を画す精神性だといえるでしょう。

 

第2次世界大戦の敗戦以降、当時の日本人が西欧、大陸流の精神文化をおそらくはしっかりと認識せずに取り込んだばかりに、現在の日本の人々の精神性はどこか頼りないものになってしまったように感じます。

 

日本の精神性と西欧などの精神性は全く相反するものであるため、それを認識せずにいるとアイデンティティーの崩壊を招き、どっちつかずのあやふやな精神が育まれてしまうのではないかと私は考えます。

 

現代の日本人に、「日本人に生まれてきて良かったと思えるかどうか?」というアンケートをとると、良かったと答える人の割合は非常に少ないそうです。

 

対して欧米や大陸に住む人々に同じようなアンケートをとると、良いと答える人の割合が非常に多いという結果になるそうです。

 

この背景には、まさに現代に生きる我々日本人のアイデンティティーが確立されていないことがあると言えるのではないでしょうか。

 

しかし、嘆くことはありません。

 

私達の祖先はずっと昔から日本の文化として誇ることのできる”自然哲学”を継承してきたのです。

 

はるか昔から八百万(やおよろず)の神々と呼ぶ全ての自然を神と捉える思想を、自然に神聖さを感じることのできる豊かな精神を、自然との共生という独自の哲学、美意識を脈々と受け継いできたのです。

 

ただ、今はまだそのことに気付いていないだけなのです。

 

しっかりと皆にこの精神は受け継がれています。

 

私は自然と接するとき、不思議と癒され、なんとも言い難い慈しみの情愛が生まれます。

 

これは私の親が自然を愛する人であり、祖父母達が自然を慈しむ人たちであり、祖先たちが自然と共にずっと生きてきたからに違いないでしょう。

 

私はその祖先たちを誇りに思い、そして未来の子供達にそのことをしっかりと伝えて生きたいと思います。

 

 

 「バランスのとれた食生活を心がける」ということは、ふだんから多くの人が気をつけていることでしょう。

 

 皆が食生活においてバランスが大事だということを考えているのは素晴らしいことだと思います。

 

 しかし私が思うに、多数の人が勘違いしているのが、「足りないから補うことでバランスが保てる」という考えではないでしょうか。

 

 たくさんの人たちが、今の日本人のふだんの食事が質、量ともに十分であることをあまり認識していないように感じます。

 

 こう言うと 「いや、日本人はカルシウムや食物繊維が全体的に摂取不足なんだ」という声が聞こえてきそうです。

 

 たしかに栄養学に基づいた考えでは、人間に望ましい栄養の摂取量のうち、日本人全体でカルシウムや食物繊維、そのほか微量金属元素などが不足しているといいます。

 

 しかし、だからといってそれらの多く含まれた食品を摂取すればそれでいいというわけではないのです。

 

 また私は個人的にサプリメントで補うという考えにも否定的であります。(これについてはまた別の機会にたいぞうの想いにて述べたいと思います)

 

 人間の身体というものは素晴らしい環境適応能力を持っています。

 

 ある栄養が足りなければそれを体内で合成することのできる能力。

 ある栄養が足りなければ最小限の量で人体が正常な機能を保つようにその他の栄養物質で補うという能力。

 

 仮に栄養学の考えに基づき、常に十分な栄養を摂取し続けていると上記のような能力は必要がなくなります。

 

 また、本来の自然な生活の中では摂取できないほどの充分なる栄養を摂取していると、身体はそれが自然な状態と遺伝子レベルで認識するようになっていきます。

 

 例えば、それほど噛む必要のない食事をつづければアゴや歯は必要なくなり、唾液による酵素分解も重要でなくなります。

 例えば、本来は生体内で様々な化学反応により抽出されるはずの栄養素を、直接経口摂取しつづけていると生体内での様々な化学プロセスが重要でなくなります。

 

 すなわちそれは人間の身体にとって退化といえるのではないでしょうか。

 

 別の角度から捉えて見ましょう。

 

 ある二つの料理を食べる機会があったとします。

 

 片方は、一つ一つが素晴らしい味わいをもつ素材をふんだんに取り入れた料理(たとえばフォアグラ、トリュフ、キャビア、和牛フィレ、本マグロ、カニ、ふぐ、雲丹などをふんだんに使用した料理)。

 片方は、できるだけ無駄な装飾や不必要とおもわれる旨みや味を取り除いた料理。

 

 前者の料理も、全体の調和がとれるように調理すればもちろん素晴らしい料理でしょう。

 

 しかし後者の料理も調和がとれた素晴らしい料理なのです。

 

 前者はいわゆる足し算の料理であり、後者は引き算の料理です。

 

 どちらも素晴らしい料理でありますが、コスト面などを考えますと後者のほうが優れています。

 

 また前者の料理ばかりを好んで味わうような人は後者の料理の素晴らしさが理解できなくなるかも知れません。

 

 今の日本人は料理においても栄養においても足し算ばかりの感性で生きているように思えてなりません。

 

利益追求団体の広告などの意見を鵜呑みにし過ぎているように感じてなりません。

 

 もちろん足し算を否定するわけではありません。

 

 ただ本当のバランスを考えるときは決して足し算だけでは成り立たないのです。

 

 今の日本は様々なものが十分に足りていることをまず認識すべきではないでしょうか。

 

 今こそ引き算の感性を取り戻すときなのではないでしょうか。

 

 

 

 

中谷巌氏著書のサムネール画像

 

 2008年のアメリカでのサブプライムローン問題をきっかけに始まった世界同時不況。

 

 バブルを際限もなく生み出し続け、自然の征服、破壊を続けるグローバル資本主義のあり方に疑問をもった中谷 巌氏の著書「資本主義はなぜ自壊したのか」を読みました。

 

 氏は”資本主義”、”市場原理”に全てをまかせることによる様々な弊害を例にあげ、「このままでは人類全体が破滅的な道を歩み続けてしまう」と危惧しています。

 

 そして西欧の人々や大陸の人々、そして我々日本人の有史以前からの歴史を遡り、それらの宗教観や置かれた立場などを考察し、現在の世界の状況を氏なりに認識した上で、われわれ日本の人々が脈々と受け継いできた精神や宗教観の重要性を強く説いています。

 

 私は思春期のころからずっと今まで、「宗教を持つから争いが起こる」と考えていました。

 

 自分の拠りどころを「宗教」にするから、それと相反したり相容れない他の宗教を拠りどころにしている人々との争いに発展してしまうのではないかと考えていました。

 

 ですから宗教を持つことを、自分の心の拠りどころを宗教におくことを意識的に非難していました。

 

 そして、当時の多数の大人たちの”アメリカ的思想の屈折した過大評価”に影響されたこともあり、ますます個人主義の正当化に拍車をかけていました。

 

 しかし中谷氏の著書を知ることで、私の祖先たちがどれほど素晴らしい精神をもっていたか、どれほど素晴らしい宗教観をもっていたかを考えさせられました。

 

 中谷氏は日本が島国という独特な状況に置かれてきたことから考察し、日本人が世界でも稀有な精神性を創ったと記しています。

 

 様々な生き物、水や空気、道端の石ころにまで神を感じることのできる精神。

 

 この世の全てに神が宿ると考えてきた我々の祖先。

 

 もちろん今これを読んでいるあなたも神であり、そして私にも神が宿っている。神の一部なのです。

 

 すると結局は宇宙全ての存在が神であり、全ての存在が慈しむべき存在であるといえるのです。

 

 我々の祖先はみなこのような素晴らしい思想を持ち得た素晴らしい人たちであったのです。

 

 先祖に誇りを持てるというのは、今の自分の存在を認め自分に誇りを持てるということなのです。

 

 この想いを導いてくれたこの1冊の本との出会いに心から感謝します。

 

   たいぞう35歳の目標

 

* たくさんの人たちに玄米を美味しく食べることの出来る機会を提供する。

 

   たいぞう35歳の夢

 

* よりよい食のスタイルを提供していくことで、たくさんの人たちの喜びを共有できるようになること。

 

* よりよい食のスタイルを提供していくことで、地球の環境を考えるための手段をも提供できるようになること。

 

* よりよい食のスタイルを提供していくことで、未来の人たちに「何か」を残す事ができるようになること。

 

* よりよい食のスタイルを提供していくことで、たくさんの利益を得て、貧困によりたくさんの苦しんでいる人にそれを提供すること。

 

 

 こうやって夢を描いたあと、客観的にみつめると自分が未だに幼稚な人間であることを再認識させられるものです。

 

 こうして夢を発表している時点で人間的に未熟であることが今まさに認識できました。

 

 それでもあえて未来の自分のために、この想いをここに残します。

 

 40歳の自分がこれを見て何を想うか。

 

 50歳の自分がこれを見て何を想うか。

 

 20歳の子供がこれを見て何を想うか。

 

 2009年現在のたいぞうの夢です。

 

  2009年新春、アメリカ合衆国に初の黒人大統領が誕生しました。

 

 バラク・オバマ氏が合衆国大統領に就任したことで、アメリカ合衆国という国はこれから環境保全に向けて大きく舵をきることでしょう。

 

 そして同盟国である日本はそれを受けて、これまで以上に環境に対する取り組みを加速させることは間違いありません。

 

 また、2008年に始まった世界経済の同時悪化により、これまでの先進国における大量生産、大量消費のスタイルが改めて見直されることでしょう。

 

 人々がまだまだ新たなバブルを生み出す懸念は消え去りませんが確実に、大量消費による地球環境の破壊についての認識が高まりつつあります。

 

 身近な話では、この春に福井の各スーパーなどでのレジ袋の有料化が実行されます。

 

 レジ袋を利用する人が激減することが考えられるため、レジ袋の大量消費を見込んで大量生産、販売をしている企業はビジネスモデルを変えなければ存続はできなくなります。

 

 

 私は以前、焼肉店を営んでいました。

 

 焼肉店は夏季が繁忙期でありますが、夏の暑いときに炭を使って火を焚き、なおかつ冷房をガンガンと効かすという行為に罪悪感を抱いていました。

 

 また私はバイキング形式でのレストランを営んでもいました。

 

 必ずといっていいほど残飯が発生するそのビジネスを続ける最中、常に私はこう思ったものです。

 

「俺はろくな死に方をしないな」と。

 

 しかし、ようやく調和をもたらす新しい価値を発見し、それをビジネスとして成り立たせる可能性を見出すことが出来ました。

 

 次回「たいぞうの思い35」にて「たいぞうの夢」を語ります。

 

 

  本日、平成21年1月31日(土)付けの福井新聞14面にて「忠先生の科学教室」というコラムが掲載されています。

 

 この忠先生というのは福井高専の吉村 忠与志 教授という方なのですが、私の学生時代の卒業研究の担当教官でした。

 

 忠先生は以前から福井新聞に科学教室のコラムを掲載されていますが、毎回のごとく環境をテーマに語っております。

 

 今回の内容も地球温暖化やそれに伴う石油エネルギーの使い方についての考察を語っておられました。

 

 また、そのコラムの中で人類の爆発的な増加を懸念し、国際的なレベルでの人口の調整を提案していました。

 

 

 なぜ地球において人口が増え続けるのでしょうか。

 

 日本という国だけを見れば、これから人口が減っていくことを懸念しているというのに・・・。

 

 生物界のピラミッドというものがあります。

 

 下等生物ほど生涯に子を産む数が多く、高等生物になるほどその生涯において子を産む数が少なくなるというものです。

 

 虫や魚、蛙などは天敵が多く、子を作っても死の可能性が高いため、一生の間に多数の子を作ります。

 

 反比例して人間などは天敵がいないため、子の死の可能性が下等生物と比べ低いので一生の間に産む子の数はそれほど多くはありません。

 

 

 それなのになぜ全世界では人口が増え続けているのでしょうか。

 

 

 日本などの先進国は科学の恩恵により「死」がそれほど身近にありません。

 

 ですから本能レベルでの子をたくさん産もうという意識が働かないのでしょう。

 

 しかし世界に目をむけてみれば、たくさんの国々で貧困による「死」が身近にあるというのです。

 

 日本とは比較にならないくらいの貧困の中で、常に死と隣り合わせの人々は自分の子孫を残すためにたくさんの子を産みます。

 

 このため地球規模での爆発的な人口の増加が発生しているのです。

 

 ではどうすればよいか?

 

 その答えの一つに、世界において貧困を無くすという考えがあります。

 

 あまりにも不平等なその貧困を無くすことで人口の調整が可能というのです。

 

 実際にバングラディシュなどにおいて貧困の改善により、一人の母親が産む子供の数がこの30年の間で6.3人から3.3人まで低下したといいます。

 

 

 貧困が様々な社会悪を招き人類全体の進化を妨げていることは間違いないでしょう。

 

 われわれ日本人のような裕福な人間は人類全体の存続と進化のためにいったい何をしなければならないのでしょうか。

たいぞうの想い
商品一覧
感動の玄米
玄米と相性の良いおかず
発芽玄米酵素ごはん
黒米おはぎ
発芽玄米ころっけ
お客様の声
発芽玄米酵素ごはんのあるお店
Q$A
お問合わせ
店舗情報
たいぞうの得々情報
たいぞうのソーシャルビジネス



は定休日です

Powered by
MovableType4.23-ja
玄米屋(げんまいや)たいぞうのホームページ
count