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月イチ更新記事

 

「食養学」「栄養学」という学問は、一体いつ頃に生じたのでしょうか? 

 

 

「栄養学」の歴史はわりと新しく、今から90年ほど前、1920年頃に佐伯矩(さいき ただす)という医化学者によって提案・提唱された新分野の学問であり、それまでは栄養(営養)というものはあくまでも医学の一部として認識されていたに過ぎない概念でありました。

 

しかしながら、当時の日本政府が欧米列強との軍拡競争のために富国強兵策を推し進めていたこともあり、それまで「営食養生」と称されていた食の営みの在り方に「栄える」という字を当てた「栄養学」の研究は、政府からの大きな支持を得られることになったのです。

 

「栄養」の名づけ親であり、今も一般社会に広く浸透している「一日三食」の習慣などを推奨した佐伯氏は、その精力的な活動が認められ「栄養学の創始者」と呼ばれています。

 

 

また、1940年頃に香川昇三・綾 両氏により設立された女子栄養学園(現・女子栄養大学)の存在は、栄養学の発展を大きく後押しし、1947年には栄養士法が設立されるなど、栄養学は公的なものとして一般にますます広く浸透していきました。

 

香川氏は栄養士や管理栄養士といった公的身分の地位向上にも大きく尽力し、彼らが推進発展させてきた現代栄養学は、今の日本社会では圧倒的な支持を得ています。

 

学校給食や病院などに従事する栄養士の方々の中で、現代栄養学の大きな特徴でもある4群点数法を批判できる人などは、まず居られないのではないでしょうか。

 

 

 

・・・対して、「食養学」とは、明治時代に活躍した福井県(藩)出身の軍医 石塚左玄(いしづか さげん)が創立した学術理論です。

 

石塚氏は佐伯氏が栄養学を学問として創立する以前より、食物と心身の関係を理論としてまとめ上げた人物であり、化学的食養長寿論など多数の著作を出版し、その著作の中で「体育智育才育は即ち食育なり」と、初めて「食育」なる概念を提唱した「食育の祖」としても有名です。

 

 

氏は晩年である1907年には、「食養会」という玄米菜食を基調とした食養を実践する団体を立ち上げ、初代会長の座につきました。

 

なお、食養会第三代会長にはマクロビオティック創始者として著名な桜沢如一氏も名を連ねています。

 

しかしながら食養会およびその関連団体は第2次世界大戦後、GHQにより公職追放されることとなり、食養学を普及実践している団体は現在、日本綜合医学会やマクロビオティック関連団体のみとなっている模様です。

 

 

 

こうして栄養学と食養学の歴史を振り返ってみますと、どちらも創立されて100年程度しか経っていない若き学問であることがお分かりいただけると思いますが、実はそれぞれの背景にある思想に興味深いことが隠されているのです。

 

それらについて誤解を恐れずに簡単な説明をいたしますと、栄養学は西洋で生じた思想に準じた学問であり、食養学は東洋思想の影響を色濃く受けた学問であるということです。

 

 

 

「栄養学」は大雑把に言えば、ヒトや食品を構成している物質を科学的に細分化しながら、その物質(栄養素)が生物にどのような影響を与えているのかを研究する学問です。

 

 

栄養学による研究は、ヒトにしろ動物にしろ食品にしろ、あくまでもその個体(または特定の集団)に生じる変化や現象にしか視点を置いておらず、その他の存在に生じてくる変化については、研究や考察の対象外とされてしまっている点が大きな欠点だと言えるでしょう。

 

 

さらに栄養学について批判めいたことを言わせてもらうと、近視眼的な見方が過ぎるところや、いかんせん局部的な情報でしかないのにも関わらず、新たに得た知識情報(知見)を過信する傾向が強いところ、そして個人ないし人間のさらなる発展を求め過ぎるがゆえに過去の経験則を軽視する・・・・などといったところに問題があります。

 

 

そしてもう一つ重大な欠陥として、栄養学の研究によって導かれた知見が、局所的知見でしかないにも関わらず、ヒトに普遍的に通用すると盲信してしまいがちなところなどが挙げられますが、これらの批判について詳しく書こうとしますと、栄養学だけでなく科学(西洋科学)の在り方をも根本的に批判していくことに話が逸れていってしまうため、栄養学(西洋科学)の批判についてはまた別の機会に書くことにします。

 

  

一応、私の個人的な見解を主張させていただくならば、栄養学とは当時の日本人が体格や経済面で欧米人に大きく劣っていたコンプレックスを、解消せんがために編み出した学問だといっても過言ではなく、今もその延長線上で不毛なる発展を求め続けている「未熟な思想」であると言えるでしょう。

 

 

 

 

・・・・対して「食養学」は、栄養学同様に科学的細分化による研究をしながらも、根底に古代中国の思想である陰陽論や五行思想を取り入れた学問です。

 

(陰陽説とは、陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つという考え方であり、五行思想とは ヒトや動物、食品だけでなく、無生物をも含めたありとあらゆる存在が互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化および循環していることを、五元素をもって体系化した思想です)

 

食養学においては、栄養学と同様に人間のより良い向上を目指してはいるものの、陰陽五行説の影響を色濃く受けたその考えは、過去幾数千年の経験則に基づき体系化した(東洋)科学であることや、万物との調和を善しとするところが、新たなデータから知見を導く(現代)栄養学とは根本的に異なっているのです。

 

 

しかしながら、現代社会に浸透した西洋科学的な見地からすれば、東洋の陰陽五行説などはオカルト扱いされてしまうことが多く、食養学も同様に、過去の古い亡霊であるが如くの認識をされてしまっているのが実際のところです。

 

 

このような誤解は文明の発展の最中には仕方がなかったことなのかもしれませんが、今も天皇家の御献立は栄養学ではなく食養学に基づいて立てられているなど、食養学が決して迷信や妄信の類のものではなく、永き伝統を継承しながら、調和のために発展してきた素晴らしき学問であることを、私達は今こそ知るべきなのではないでしょうか。

 

 龍ヶ崎かな子のサムネール画像

つづく

 

 

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萬蔵

 

 

 

「健康のためには粗食が良い」といったようなことを主張しますと、

 

 

 

「いや、そういった思い込みで偏食になり、栄養不足になってしまうのです。

極端に肉や油や卵を敬遠すると、タンパク質不足で血管や免疫細胞、筋肉などの組織が作られにくくなり、良くありません。

豆腐などの植物性タンパク質で補おうとしても、木綿豆腐だと一丁200kcal以上ありますので、それならば豚肉の赤身など、動物性のタンパク質も摂取した方が良いでしょう」

 

 

などと、相反するような主張をされる人が必ず現れます。

 

 

「健康」という概念に、自身の確固たる信念を未だお持ちではない方にとっては、一体どちらが本当の話なのか?と混乱してしまう場合も少なくないでしょう。

 

 

私なりの結論を先に申しますと、「逆もまた真なり」ということであって、どちらの主張も正しいと言えます。

 

ただし、同時に「どちらも間違っている場合がありうる」ということも忘れてはなりません。

 

 

こんなことを言うと、何が何やらわけが分からず、ますます混乱されてしまう方も居られるかもしれませんが、真の人の健康というものが、心と肉体、そして環境の3つの概念によって成り立っている事実を認識すれば、それはけっして難しい話ではなくなるのです。

 

 

これから玄米屋たいぞうの思想における、人の心の健康、人の肉体の健康、そして人の環境の健康について色々な話を書いていこうと思いますが、その前に

 

 

玄米屋たいぞうが「食養学」のスタンスに依って立っていること、

そして近代以降の日本社会が一般的に「栄養学」に基づいて成り立ってきたこと、

 

 

まずはそれらについての説明と、「食養学」や「栄養学」とは何なのか?・・そういったところを書きながら、「真の人の健康」というものの本質を見出していこうと思います。

 

 

つづく

  

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前回の話はこちらから

 

 

玄米屋を始めてから、人からよく言われるのが

 

『玄米が体に良いのは分かってるんですけどねぇ・・。』

 

という言葉です。

 

 

「けどねぇ・・・」ということは、その後に続く言葉があるのでしょうが、要は「好きではない」、「食べたいと思わない」などといったところでしょうか。

 

またはその人の家族の中に、玄米が好きではない方が居られるのかもしれません。

 

 

人間、好き嫌いがあるのは当然のことであり、自分が食べたいと思う食べ物を食べることは「健康」であるために大事なことの一つですので、それについてとやかく言うようなことは馬鹿馬鹿しいことではあるかもしれません。

 

 

 

ただ、そういう人達は玄米が体に良いことを分かっているにも関わらず、玄米を食べたいと思うことが出来ないとおっしゃるわけですが、それは一体なぜでしょうか?

 

 

 

その「なぜ」を考察していけば、そういった人達は自分(の快楽)のためばかりに食べているからという理由が導かれます。

 

 

 

・・・私はよく「思想の違い」と表現しているのですが、「自分(の快楽)のためばかりに食べること」「人のために食べること」では、その結果や有様に明確な違いが現れることをご存知でしょうか?

 

 

 

自分の快楽のために、自分が好きなものを食べることによって、自分の心(脳)の満足が得られるのは間違いないことです。

 

 

 

しかしながら現代社会において、各個人の快楽や満足のための食品が用意されるまでに、一体どれほどのエネルギーが消費されているのか?

 

それがどれほど多くの自然環境を荒らし、私達がこれまで住んできた環境をどれほどまでに変化させ続けているのか?

 

そしてキリのない自分の快楽によってもたらされる多大なエネルギー消費が、同じく自然環境の一部である自分の肉体、ヒトとしての肉体の健康をも荒らし続けているという事実。

 

 

 

・・・私はそういったところをを思いやった上で、自らの「食」という行為を営むことが「人の健康」のために大事だと考えています。

 

 

 

前々回に「自分の健康維持のための食の行為が、往々にして「人の健康」を蝕んでいる」と書きましたが、ただただ自分の健康のためばかりに食べ続けたところで、人としての健康、本当の健康は得られないのです。

 

 

 

・・・そもそも「自分」とは一体何でしょう?

 

 

・・・自分は「人」でありましょう。

 

 

そしてその「自分」とは、「人」とは何でしょう?

 

 

私達は一体何で構成されているのでしょう?

 

 

 

・・・私達はすべからく、あらゆる他の存在、自分を取り巻く環境のおかげをもって「自分」という存在が確立されています。

 

 

私達それぞれの心(意識)は、人としての肉体があって初めて存在できており、そしてその人としての肉体も心(意識)も、「今の環境」があればこそ存在し得るのです。

 

 

であるにも関わらず、私達それぞれが他の存在や環境を思いやることなく、「自分」の心や肉体の健康ばかりを求め続けているようであれば、やがて「自分」は「人」ではなくなっていってしまうこととなるでしょう。

 

 

「自分」はただの孤独な存在でしかなくなってしまうわけです。

 

 

 

「自分の健康」とは「人としての健康」があって成り立つものであり、「人の健康」とは他の存在、環境が生命体として健全であることに拠って成り立つものです。

 

 

本当に自分の健康、自分の満足を得たいのであれば、「人としての健康」のために食べることに自分の喜びを見出し、さらには他の存在や環境を構成する様々な生命の健康のためとなる食べ方、生き方に自分の喜びを見出すことが大事となるのです。

 

 

それが廻り回って自分の健康へとつながっていくわけです。

 

 

心も体も。

 

 

 

それが仏教でいうところの「身土不二」であり、「身」(今までの行為の結果)と、「土」(身がよりどころにしている環境)は同一のものであるという思想から導かれる事実なのです。

 

 

 

・・・環境調和型農業による食を選択していくことは、他の存在に「生」を与え、環境の保全へとつながり、それは同時に自分自身にも「生」を与えることとなるでしょう。

 

 

先進国に住む私たちは「何らかの価値」というものを、これからは自分の楽や便利といったものばかりでなく、「他の存在に生を与える」というところに見出し、そうしたことから得られる満足や喜びに「価値」を見出すことが大事だと私は考えています。

 

 

 

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前回の話はこちらから

 

 

・・・・キリなく活発化を求め続ける経済の動きの中で、私達は化石燃料などから得られる莫大なエネルギーや地球上の多様な物質を、ただただ消費し続けることによって、様々な「楽」「便利」といった価値を多くの人達に提供し続けてきました。

 

私達はそうした価値に”それぞれの自分の満足”を見出しながら生活を営んできました。

 

 

「楽」や「便利」という価値によって得ることができる自分の満足自分の安心といった己の感情のために、

 

莫大なエネルギーを消費しながら、様々なモノや環境をキリなく変化させ続け(コントロールし続け)

 

そうやって創り出したモノや環境に、これまたキリなく依存し続けながら私達は生活しているわけです。

 

 

そうした中で、先に説明したように社会においては経済の活発化を求める動きが止むことはありません。

 

それはつまり、現代社会に生きる私達はこれからも多大なエネルギーを消費し、モノや環境をキリなく変化させ続けなければ、自分達の生活を維持していくことができない・・ということでもあるわけです。

 

 

現代社会の中で生きる以上は、残念ながらその社会の流れ、経済の動きに抗うことは難しいでしょう。

 

 

 

そして次の認識が大事なのですが、そのような社会の流れに乗って自分の満足や安心のためばかりの行動をとり続けていれば、それによって蝕まれることになるのは「自分の健康」ではなく、「人の健康」「人としての健康」だということです。

 

 

 

・・・繰り返しますが、私達はこの社会の中で「自分にとっての楽や便利」といった価値を求め続け、その自分の満足のため(自分の健康維持のため)に自分以外の存在をキリなく変化させ、自分に都合が良いようにコントロールし続けることを推奨してしまっています。

 

そうやってそれぞれの人達が自分に都合が良いようにモノや自然環境を変化させ続けていれば、果てには人という存在の有様もが変化していってしまうのは当然の出来事なのです。

(自然を変化させ、人に都合よくコントロールしている実際の例として、食の分野においては”加工食品の乱立”や”食品の工業化”などが挙げられます) 

 

なぜならば、人の肉体とは他の様々な物質や環境によって構成されているものであり、それはまさしく自然環境そのものなのですから。

 

 

 

・・・では実際に人の存在の有様、人の肉体は一体どのように変化してきているのでしょうか?

 

 

それらの変化の具体的な例としては、玄米屋たいぞうの想い65でも書いたように、ヒトの生殖能力の低下自律神経系や内分泌系免疫系などの維持能力の低下などが一つの例として考えられます。

 

また地球上においてヒトの数が圧倒的に増加し続けていることも、人の存在の有様の変化、環境の変化の結果として挙げられます。

 

 

そして、さらには科学の発達により、「クローン」といった存在をも生み出すことの出来る技術が人間社会の中で確立されつつありますが、そうした技術によって寄与される個人にとってのさらなる便利や楽といった価値が、人としての存在の有様に今後どれほどの変化をもたらすことになるのかは想像に難くありません。

 

 

 

 

・・・・様々なモノや自然環境をそれぞれの自分にばかり都合が良いようにコントロールし続けてきたことにより、日本の食を取り巻く環境は「飽食」「崩食の社会」と呼ばれるようになって久しくありますが、そのような時代環境に生まれてきた人達はそうした状況がその人達にとっては普通だと認識します。

 

ラクな環境や便利なモノに慣らされてしまった人の心や肉体にとっては、その飽食や崩食と呼ばれるようにまで変化した社会環境こそが普通の状態となるわけです。

 

 

すると、そういった環境に順応した人達の中には、多大なエネルギーに依存しながらも、自分にとって都合よくコントロールされた環境でなければ生活できない、生きられない・・・という怖れの感情を生じさせてしまう方も少なくないのですが、人の健康、とくに人の心の健康を害する最も大きな要素の一つが、じつはこの「怖れの感情」なのです。

(ちなみに「怖れ」は「不安」とはまた少し違います)

 

 

この「怖れの感情」についてのくわしい話も、次回以降に「人の心の健康」と題して説明していきたいと思います)

  

 

 

・・・経済を活発化させようとする力は、

「より多くの人達により多くのモノを売ろう」

といった動きをも促進します。

 

そのため食の業界では、より多くの人達に「もっと欲しい!」「もっと食べたい!」と欲求されるような食品や、より安価な食品の開発などに拍車がかかり続けます。

 

 

経済は多くの人達の”食の欲望”を煽ることにも余念はありません。

 

 

そうやって”食の欲望”を煽られた人達の多くが、生じてしまった自分の欲望を満たすために、人の手によって様々にコントロールされた(加工された)食品や食のシーンなどを求めて快楽を得ようとするわけですが、その大きな快楽から必要以上に食べ過ぎてしまう人達も後を絶ちません。

 

そして食べ過ぎることでヒトが病気となるリスクは飛躍的にアップしてしまいます。

 

 

肉体の健康を害する最も大きな要因、科学的に因果関係が明確となっている事実が「必要以上に食べ過ぎること」なのです。

 

 

 

・・・・実際に病気になったり、病気になることを恐れだすと、次に人は医療業界に自分の安心や満足、便利といった価値を求めていくことになります。

 

医療業界においても、もちろん経済を活発化させようとする働きは作用しており、多くの人達に安心や満足を与えるための便利な医療サービスが次々と提供され続けています。

 

ですが、もし私達がその過剰ともいえるであろう医療行為に依存しなければ自分の健康を存続できないというのであれば、それはもはや人としての健康を著しく損なってしまっていると言えるのではないでしょうか。

 

 

なぜならば現代医療は膨大なエネルギーの消費を前提にして成り立っているため、それはつまりこれからも自然環境をキリなく変化させ続けなければ、現代医療を維持していくことは出来ないということになるからです。

 

それは言い換えれば、人(の肉体)の自然な有様をも自らキリなく変化させ続けなければ、現代医療の維持は成り立たない、つまり自分の健康を維持していくことができないということなのです。

 

 

なんとも皮肉なことですが。

 

 

また話は少しズレますが、今の医療業界が多額の税金の投入があって初めて成り立っているという事実も、これからは大きな問題となっていくことでしょう。

 

 

 

 

・・・ただ、こうした話を聞くと、大きな不安に襲われてしまう方々もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、人の不安を煽ることは私の本意ではありませんし、そのようなことは望んでもおりません。

 

 

先に申しました様に、私達がこうした社会の流れ、経済の動きに抗うことはまず不可能です。

 

そもそも、それが現代社会としてのある意味自然な流れですので、その自然の出来事に対して不安になることなどありません。

 

 

人の欲望を否定する必要もありませんし、経済の流れというものは”人が生活していく中で安心や安定を望む心”から生じている人のダイナミズムであり、ヒトという生物が常に安心というものを必要とする不安定な存在である以上、その流れを否定しても仕方がないのです。

 

 

 

・・・ただ、私達がその”自分の安心”、”自分の満足”、”自分の健康”を得るために、「楽」や「便利」といった価値に依存し続けることで、どれ程多くのエネルギーを消費使用し、結果として私達が住んでいる環境の秩序をどれほど乱し続けているのか?

 

そういった認識は人として持ち続けるべきであり、そうした事実に対しての何らかの対策の手段を考え、それを実行していくことが、私達が「人」として生きていくために大事な”思いやり”なのではないかと私は思うのです。

 

 

 

 

玄米屋たいぞうの想い76 ( 食と玄米と人の健康 後編 )につづく 

 

 

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今回は「人の健康」というものについて、私が考えていることを書いてみたいと思います。

 

 

玄米屋たいぞうでは、日々の食生活の中で玄米を主食とする食習慣を取り入れることを多くの人達に勧めているわけですが、なぜそれを勧めるのかと問われれば、それはもちろん玄米を食べることが「人の健康づくり」に役立つからです。

 

私は『健康』というものを考える際には、「人の心の健康」「人の身体の健康」「人の環境の健康」といった3つの健康軸があり、それらがそれぞれに複雑、密接に関わりあっていることを認識することが大事だと考えています。

 

そうした考えの下で、私は日々の生活の中に玄米を主食とする食習慣を取り入れることが、それら3つの健康づくりに大いに役立つと確信し、人様に玄米を推奨しているというわけです。 

(3つの健康軸の概念について、そしてそれらがどう関わりあっているのか?についてのくわしい話は、次回以降に書いていきます)

 

 

・・・ところで、食と人の健康の関係を考えますと、私は基本的には、その時々に自分が食べたいと思う食べ物を腹七~八分目程度に摂取していくことが、「自分の健康維持」に最も役立つ食べ方だという風に考えてはいます。

 

ですが、現代社会においてはその「自分の健康維持」のための食の行為が、往々にして「人の健康」を蝕んでしまっているという事実があるのです。

 

なぜそうなるのか?と不思議に思われる方も少なくないと思いますので、少し長くなりますが具体的な説明をしてみましょう。

 

 

・・・そのためにまずは現代社会の特徴を考えてみます。

 

現代社会というものは、その中で常に経済を活発化させようとする力が働いていますが、それはつまり人と人との間でのお金のやり取りを活発化させようとする働きであります。

 

なぜそのような力が働くのかと言えば、それは人が社会の中で生活していくためにはお金こそが必要とされているからですが、人が自分の生活のために必要なお金を得るためには、他人に対して何らかの価値を提供し続けていかなければなりません。 

 

現代社会では人が人に対して何らかの価値を提供する際には、お金のやり取りを伴う仕組みとすることが推奨されておりますので、そうしたやり取りが活発化すればするほど、人は互いに満足感や幸福感を得ることができるわけです

 

そのため、社会では「お金のやり取り」「他人に対して何らかの価値を提供する動き」が推奨され続けています。

 

それが経済の活発化を求める力の正体であり、つまりそれは満足や喜び、安心というものを求め続ける「人の欲望」が生み出している力なのです。

 

 

・・・日本の食の業界においても、そうした経済の活発化の働きにより、人々の間で様々な価値が提供されあってきました。

 

その結果どうなったかと言えば、日本中で、いつでも、どこでも、様々な種類の、非常に美味しい食品を、安価に、非常に手軽に、様々なシーンで、楽しむことが出来る環境が、めでたく形成される運びとなったわけです。

 

それは世界でも一、二位を競うほどに恵まれた食環境です。

 

しかし、私達の食の環境がそこまで便利で、人にとって完全に満たされたと言えるであろう状況となったにも関わらず、社会が経済の活発化を求める動きを止めることはありません。

 

なぜなら人と人との間でのお金のやり取りが滞ってしまえば、多くの人達が生活に支障をきたすことになってしまうからです。

 

 

自分達の生活の安定のために、

または自分達の喜びや満足のために、

 

経済の動きは常に活発であることを求め続け、人に満足感を与えるような何かしらの価値をより多くの人達に提供しようとし続けます。

 

 

・・・そしてここからが問題となるわけですが、人が何らかの価値を受け取り、対価としてお金を支払う際には大抵の場合、自分にとって「楽」「便利」といった価値でなければ納得してお金を支払うことなどありません。

 

つまり自分にとって苦しいと感じることや、不便と感じるモノやサービスに満足してお金を支払う人などはまず居ないのです。

 

ですから、経済というものは多くの人達の欲望、我欲の感情を煽りながら、人にとってさらなる「楽」や、より「便利」と感じさせるような価値を半ば強引といえるまでに提供し続けていくわけです。

 

 

食の業界においては、サプリメントなどのようにラクに栄養が摂取でき、なんとなく安心感を与えるような健康商品の販売量が増加の一途を辿っていることや、私達の食を取り巻く環境が「飽食」「崩食」などと呼ばれるようになって久しい状況などが端的にそうした事実を現していると言えるでしょう。

 

 

・・・しかしなぜそれらが「人の健康」を蝕むことになっているのでしょうか?

 

 

玄米屋たいぞうの想い75( 食と玄米と人の健康 中編 ) につづく

 

 

 

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 前回、国においても個人においても、自らが必要とするエネルギーを「自給自足」していないために、人の「自律」が阻まれてしまうのではないか?という私の考えを述べました。

 

その考えの裏付けとなる、過去と現在に起きた出来事を挙げてみます。

 

 

 

・・・過去、明治維新以降より始まった日本の資本主義ならびにエネルギー消費拡大生活は、やがて日本が第二次世界大戦に踏み切らざるを得ない状況を生み出しました。

 

かつての日本はなぜ戦争に突入しなければならなかったのか?

 

過去を振り返れば、それがエネルギー問題であったことがわかります。

 

石炭や石油といった化石エネルギーを持たない日本が、資本主義による自国経済を維持しながら、欧米列国と対等に渡り合うためにはどうしても資源の供給先が必要でした。

 

中国での利権や、欧米各国の植民地とされていた東南アジアの利権。

 

日本だけでなく世界各国が自国の経済を死守しようと、植民地および化石エネルギーの利権をめぐって一大戦争を引き起こしたわけです。

 

もし当時の日本が国民の生活に必要なエネルギーを自給自足できる状況にあったならば、そのような争いに参加することはなかったかもしれません。 

 

つまり己を律することができたはずです。

 

しかし化石エネルギーを持たない日本は、他国にエネルギーを依存した生活を享受している内に、そのエネルギー無しでは経済つまり生活を成り立たせることが不可能となってしまったために、戦争に突入せざるをえなくなった・・・と捉えることができるでしょう。

 

 

 

・・・そして現在、日本は小さな島国であるにも関らず、なぜ原子力発電のような大きな危険性を孕んだエネルギー調達手段を推進してきたのか?

 

それはかつて起こった2度の石油ショックが発端だと言われています。

 

時の政府は石油エネルギーに依存し続けることを危惧し、国内で安定して得ることができる大規模エネルギーとして原子力発電に光明を見出しました。

 

化石燃料資源の無い日本でも、原子力発電所をつくり大規模なエネルギーを「自給」できるようになれば、安定したエネルギー社会の構築を目指すことが出来ると。 

 

日本が自立したエネルギーの確保さえできれば、再び石油ショックのような事態が起こっても、国民の生産活動に大きな支障をきたすことなく「経済の発展」および「国民生活の安定」を望めると。

 

そのように考えた政府は原発を国のエネルギー政策として推進してきたわけです。

 

しかしその結果、どのような悲劇が生じることとなったのかは言うまでもありません。

 

 

この原発問題においても、大規模なエネルギーに依存し続けなければ経済も生活も成り立たせることができない私達が、化石燃料に代わる大規模エネルギーとして原子力発電しか選択肢がなかったために、危険であるのは分かっていてもそれを推進せざるをえなかった・・・と捉えることができるわけです。

 

先の大戦にしろ、原発事故にしろ、キリなく増加し続けるエネルギー消費に依存しなければ経済を保てない社会システムこそが、人の律する行為を阻んでいると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

・・・ところで、人類のエネルギー消費量の推移を見てみると、日本においても世界においてもその推移は未だに右肩上がりを続けており、15年後の予測においてもさらなる増加が見込まれています。

 http://www.meti.go.jp/intro/kids/ecology/10.html

 

また、世界のCO2排出量の推移を見ても未だ右肩上がりであるのが現実です。

http://www.fepc.or.jp/future/warming/co2_hyouka/sw_index_02/index.html

 

 

もし私達がこの底無しのエネルギー依存を必要とする社会システムから脱却できないのであれば、私達が必要とするエネルギーの選択肢はやはり原発の推進以外に無いのかもしれません。

 

 

そうやってあきらめることで、私達人類はこれまで底無しにエネルギーを求め続け、底無しにエネルギーに依存し続けることによって「私達の環境」に様々な変化を引き起こしてきました。

 

先の戦争や前回に述べた熱帯雨林の破壊による砂漠化などもそうした変化の一部であり、福島県で現在進行形の環境破壊も私達こそが引き起こした環境の変化です。

 

 

底無しに増加していくエネルギーに依存しなければならない生活を、なぜ私達は止めることが出来ないのでしょうか?

 

 

18世紀から始まり、数十年先の未来でもエネルギーの増加が予見されている、キリのないエネルギー消費拡大生活から、私達はなぜ脱却することができないのでしょうか?

 

 

 

・・・・答えは簡単です。

 

 

それは私達の多くが、自らの衣食住を確保し続けるために「お金」を必要としているからです。

 

お金が無ければ自らの生活を維持することが出来ない社会システムの中にいるために、多くの人達が果てしない他人との競争の中でお金を求め続けてしまっているからなのです。

 

 

お金もある意味ではエネルギーであり、それは人の思念のエネルギーだと言えるでしょう。

 

つまり私達は自分の生活の維持を「人のエネルギー」に依存しているとも考えられるわけです。

 

 

・・・話が少々脱線しましたが、もし私達が自分の生活の維持をお金ではなく、自ら生産することができるエネルギーによって成り立たせることが出来れば、もう必要以上にお金を求めることも、必要以上に化石エネルギーや原子力エネルギーなどに頼る理由もなくなります。

 

実際に明治維新以前の日本人はそういったエネルギー社会を築いていたわけですが、では現代社会における私達はどういったカタチでエネルギーを自ら生産していくことが理想であり可能なのか?

 

 

 

・・・食糧エネルギーにおいては、やはり昔のように地域単位における米作を中心とした食糧生産こそが、日本の風土に最も適したエネルギー確保のあり方です。

 

私達一人ひとりが米の生産に何らかのカタチで関わり、米という循環型食糧エネルギーの消費を主体的に選択していくことで、全体としても過大なエネルギーの必要がなくなるのです。

 

わざわざ多大なる輸送エネルギーを使用して他国から食糧を輸入する必要もなければ、世界各国の熱帯雨林を破壊させる必要もなくなるのです。

 

また、多くの人達が(何らかのカタチで)米の生産に関ることによって、自らの消費意欲につながり、新たな雇用、様々な雇用も生まれ、日本国土の緑資源、環境等の保全にもつながります。

 (この雇用や環境保全については国としてのエネルギー政策、つまり食糧政策に関連する事業として非常に重要だと私は考えています)

 

 

私達の生活に必要なエネルギー(食糧)を私達一人ひとりがどう選択していくのか?

 

その一人ひとりの選択と意志(習慣)こそが、私達の未来の姿、子供達の未来の姿を決定づけているのです。

 

 

 

・・・化石燃料によるエネルギーは当然、私達が生産に関わることはできませんし、原子力発電によるエネルギーも私達一人ひとりが生産に関わることはまず出来ません。

 

あくまでも一部の人達にその権力が集中します。

 

したがって原発エネルギーは国としては自立したエネルギーであっても、私達一人ひとりからすれば結局はお金に依存しなければ得ることが出来ないエネルギーであるわけです。

 

お金に依存しなければ得ることができないようなエネルギーでは、人と人との果てしない競争により生じる様々な不幸はどうしても避けられません。

 

 

その点、循環型自然エネルギーは個人個人が生産することのできるエネルギーとして非常に有望です。

 

太陽光発電各家庭において設置が可能であり、すでに世帯レベルで消費される程度の電力は確保できる技術が確立されています。

 

風力発電も形状などの工夫により各家庭での設置は可能ですし、自治体レベルでの設置には様々な可能性が考えられるでしょう。

 

水力発電を考えれば、河川や農業用水を利用した小水力発電の普及を推進することにより、自治体レベルの自立エネルギーの確保に大きな可能性を見出せます。

 

 

 

・・・私達が今に必要な選択、今に求められていることは、18世紀から延々と続いている底無しのエネルギー依存生活からの脱却であり、それぞれが自立したエネルギーの生産を可能とすることで、自律を保ちながらも互いに手を取り合って日々を楽しく生きることのできる社会を創造していくことなのです。

 

 

大事なことはさらなるエネルギー消費拡大による「私達の発展」ではなく、自立した自然エネルギーによる「私達の安定」なのです。

 

 

私達は食糧にしろ、燃料にしろ、エネルギーの供給を他に依存してしまっているために「自律」することが難しくなってきています。

 

その例として、経済を優先し、人の安全性をないがしろにしたエネルギー供給の推進(原発の推進や戦争への参加)があり、

 

国の医療費の上昇分の約8割を占める生活習慣病の増加(先日新たに五大疾病として加わった精神疾患も、人の自律が困難となった例の一つです)などが挙げられるでしょう。

 

 

 

ですが、食糧にしろ燃料にしろ、自らで生産することによって必然的に自足することとなります。

 

そうやって自足することに依って初めて、人に「足るを知る」という自律の知恵が生まれるのです。

 

私達一人ひとりがエネルギーの自給自足を確立し、自律する知恵を持つことでようやく、個人においても私達(国)においても真に安定した生活を創造することができるのではないでしょうか。

 

 

くりかえしますが私達が本気で未来のことを考え、本気で子供たちのより良い未来、より良い環境を求めるのであれば、自らの生活エネルギーの選択に私達こそが責任を持たなければなりません。

 

未来により良い環境をつなぎ、次世代の人達のより良い未来を想うのであれば、キリなく他に依存することのない身の丈にあった生活と、その生活を維持していくために必要なエネルギーの選択こそに、私達が責任と覚悟を持たなければなりません。

 

 

 

・・・ツイッターでこんなことを書いている人がいました。

 

どうせ人間皆死ぬんだから、生きているうちに好きなことやって楽しんだ方がいいよ、と。

 

ちなみに私も、17歳の頃にC型肝炎に感染していることを知らされ当時の情報を鵜呑みにしていた時は、同じように考えていたものです。

 

どうせ早死にするんだから自分のやりたいことをやって太く短く生きたほうがイイに決まっていると。

 

 

・・・ですが、今の私の考えは違います。

 

どうせ人間、皆いつかは死ぬことは間違いありません。

 

しかし、どうせ死んでしまうからこそ、人は次の世代により良い社会と環境をつなげていくための力となることに自らの喜びを見出せるのです。

 

もし自分が死なない存在であれば(そう思い込んでいるのであれば)、そういったところに自分の喜びを見出すことはできないでしょう。

 

 

どうでしょう?皆さんは人間どうせ死ぬんだから、自分の好き放題にエネルギーを使い散らかして生きたほうが楽しいとお思いですか?

 

それとも、人間必ず死ぬからこそ次世代のためにより安定した社会、より良い環境を創造していくための力になったほうが楽しいとお思いになりますか?

 

あなたはどちらの生き方にワクワクしますか?

 

どちらの生き方に夢を見出せますか?

 

 

 

場当たり的でキリのない消費から生まれるお金に依って自らの生活を維持しようとするのではなく、お金がなくとも私達の生活を維持できるような社会の創造を見据えて生きる。

 

そのために「私達一人ひとりが自給自足できる自然エネルギーのインフラ拡充を求めていく」という、市場原理の枠から一歩外れた、国民全体の合意につながる「強い意志」「強い信念」が必要だと私は考えています。

 

 

18世紀から続くキリのない経済成長、エネルギー消費拡大をこれからも継続していくために原子力発電を利用するのではなく、

 

キリのないエネルギー消費拡大生活から脱却するために、

個人個人や自治体レベルで自給自足できるエネルギー社会基盤を創造していくために、

 

そのために今ある石油資源を利用していくという発想が大事なのです。

 

 

そのために今ある原子力施設の稼動がどうしても必要だというのであれば致し方ありませんが、あくまでもエネルギー消費拡大生活からの脱却が目的である以上、原発の推進が必要とならないのは自明の理ではないでしょうか。

 

 

 

 

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「食糧」は人の活動と存在のために必要なものであり、個人や私達の安定のために何よりも重要な、人にとって根源的ともいえる「エネルギー」です。

 

現代社会における「食の問題」とは、まさに個人や私達の生活に直結した「エネルギーの問題」であるわけですが、その問題の本質を探るためにまずは日本の歴史を振り返ってみます。

 

 

 

・・・明治維新以前、江戸時代の日本人は、全人口の約80%程度が農民であったそうです。

 

当時の日本の人口規模は約3千万人程度とされていますが、人口の8割もの人達が農耕に携わることによって、日本は狭い国土であるにも関らず長期間に渡った平和な生活環境の維持を可能としてきました。

 

つまり私達の祖先は自分達の生活のために必要なエネルギーを「農耕」によって「自給自足」することで「安定したエネルギー社会」を構築していたといえます。

 

当時の日本人の生活に関わるエネルギーの主たるものが「稲」であり、日本における二千年以上の稲作の歴史が証明するように、稲(米)は安定して確保できるエネルギーとして非常に重要な存在でした。

 

稲は空気中の二酸化炭素と太陽のエネルギーを光合成することで有機化合物に変換し、自らの存在として成しています。

 

古来、日本人はその変換された太陽エネルギーを自分達の主要な食料とするだけでなく、副産物である稲わらも衣服や肥料などに利用することによって、高度な循環型の社会を構成してきたのです。

 

その高度循環型社会においては、人が生きていく中で必ず排出するCO2を自らで稲作をすることにより還元し、同時にそれから得られる良質な酸素によって生態系の大気環境を維持していた・・・と考えることもできるでしょう。

(ただし、生態系における大気環境は地球全体におけるエネルギー活動が関わっていますので、実際には日本という小さな島国だけでCO2の循環サイクルが完結するわけではありませんのであしからず)

 

当時の日本人は「自分達に必要なエネルギーを自給自足する知恵」をもち、さらにそのエネルギーを永続的に確保するための「生態系における秩序維持の知恵」をも確立しながら「安定した社会生活」を営んでいたのです。

 

 

しかし、その安定した社会生活も、江戸時代後期に訪れた他国からの侵略の恐れによって、一変して不安定な社会へと変貌していくこととなりました。

 

それが明治維新以降から現代まで連綿と続いている私達のエネルギー消費拡大生活であり、キリなく経済成長を求め続ける西欧発祥の資本主義社会です。

 

 

 

・・・資本主義社会の発展は18世紀の英国から始まった「産業革命」が発端とされ、

(産業革命とは豊富な石炭の存在とそれをエネルギー源にした蒸気機関の発明による飛躍的な工業化を差します)

先進諸国は石炭や石油といった化石燃料を発見し、その高密度な炭素エネルギーを資本主義社会の競争原理において有効活用し続けることによって高度な文明を築いてきました。

 

化石エネルギーによって得られた人類の文明は今もなお発展を続けていますが、人類はその膨大なエネルギーを循環させて利用する術は未だ持っておらず、現時点における人類の文明の発展とは既存のエネルギーをただ消費するばかりの文化によって成り立っているのが実際の有り様です。

 

この消費文化」こそが地球温暖化を筆頭とした環境問題の根本的な原因であり、原発問題や食の問題といったエネルギー問題の本質にも大きく関わってくることなのです。

 

 

現在、先進諸国ではCO2対策を名目に化石エネルギーから原発エネルギーへの転換が図られてはいますが、消費文化とそれを推し進める資本主義社会の構造を省みないことには真の問題解決には決して到らないでしょう。

 

 

人の欲望を満たし続けるために、経済成長とエネルギーの消費ばかりを正義化する資本主義社会。

 

 

キリのない経済成長を求める現行の資本主義社会においては、より多くの利潤(金)の追求のために、今もエネルギーの消費ばかりが推奨され続けています。

 

 

そして、そうした社会で育った私達は、「食」においても無自覚に様々なエネルギーの浪費を繰り返しているのです。

 

 

・・・いくつか実際の出来事を書き出してみましょう。

 

 

一つに、『様々な事業者が多数の人達が求める食品”をより多く販売する(消費させる)ためにより安価な販売のための様々な努力をしていること』が挙げられます

 

(ちなみに”多くの人達が求める食品”には、玄米屋たいぞう便りでも書いたことがあるように、人の本能的な嗜好を満たす高カロリー、高タンパク食品などが挙げられますが、実際に先進国にて共通してみられる人の嗜好の変化には穀物食から肉食へのはっきりとした変化が挙げられます)

 

 

”多くの人達が求める食品”の代表である「肉類」をより安価に、より効率的に製造販売するために、事業者ないし関係者は東南アジアや中南米などの途上国の熱帯雨林を切り開くなどして、家畜の餌となる穀物の安価な生産を推進し続けています。

 

そういった経済合理性を追求した安易な開発によって、地球上の多くの熱帯雨林の破壊と砂漠化が進んでいるのが現状です。

 

人は熱帯雨林を切り開き、その土地で作った穀物をわざわざ家畜に与え、その家畜の肉を楽しむことによって人の快楽と経済を追求し続けているわけです。

 

人間の快楽のために家畜という動物を増やし続けることが、どれほどのエネルギーの消費を必要とし、地球レベルでのCO2発生量の増加につながっているのか?

 

それをご存知でしょうか?

 

 

また、経済成長を求める資本主義は国家間の貿易、取り引きの動きをも加速させていきます。

 

日本においては、わざわざ地球の反対側の国からであっても食糧を輸入するという動きが加速させられているわけですが、こうした社会の動きに慣らされた人達はその食糧がどれほどのエネルギー消費の下で得られているのか、それを認識する機会はほとんどありません。

 

 

そして個人を見てみれば、エネルギーを消費することばかりを推奨する社会の中で育った人は、自らのエネルギー(食)の「自律」が難しくなってきています。

 

過食や偏った食生活、食習慣を原因とする糖尿病などの成人病の増加がその事実を明らかに示しているでしょう。

 

さらには自らのエネルギー(生体エネルギー)の自律を薬や医療行為といった、さらなる多大なエネルギー消費に頼る有り様です。

 

他にも自殺やうつ病の増加、引きこもりに走る人達の増加が、現代社会における人の自律の困難さを如実に示しています。

 

 

これらの例を考えればお分かりいただけるように、エネルギーの消費増大ばかりを推進、正義化し続ける今の資本主義社会においては、個人においても社会においても人が”自律した生活”を続けることは困難であり、人類全体が安定したエネルギー社会を構築していくことなどおよそ不可能に近いと言えるのです。

 

 

 

にも関わらず、日本という国だけでなく私達一人ひとりの個人までもが、経済成長を求め続けなければならないジレンマに悩まされているわけですが、それは一体なぜか?

 

 

その答えの一つに「私達一人ひとりがエネルギーの自立を確立できていない」といったことが挙げられるのです。

 

 

今の日本社会では国家においても個人においても、自らが必要とするエネルギーを自給自足していないからこそ、多くの人達がむやみやたらな競争に巻き込まれ、様々な意味で人の「自律」が阻まれてしまうのではないでしょうか?

 

 

 

原発問題と食の問題 其の三 につづく

 

 

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平成23年3月11日に起きた東日本大震災による福島県の原発事故の影響は、未だ収束のメドが立たたないまま、今この瞬間も多くの人達に不安と混乱を招き続けています。

 

大量の放射性物質による土地や環境の汚染は現地の大勢の方々の避難を余儀なくし、汚染の風評は国内のみならず海外にまで広がり、福島県や近隣の地域の方々にとって、原発がもたらした災厄が計り知れない苦痛であろうことは疑う余地がありません。

 

しかしそうした現実があるにも関らず、私達のエネルギー政策の方針として「原発推進」ないし「原発維持」の立場を支持する人達の数は決して少なくありません。

 

原子力の制御に絶対安全などはありえないことが明白となったにも関らず、そうした方々が原発推進にこだわり続けるのは一体なぜでしょうか?

 

 

その「なぜ」についての洞察をここで書き上げればキリがありませんが、突詰めれば「経済成長こそが私達の安定や幸せ(喜び)を得るために必要なことだ」と信じている人達が主に原発推進の立場であるように思われます。

 

 

そうした人達とは反対に、私は「私達の本当の幸せと安定を築いていくためには明確な脱原発の方向性をもって歩むべき」と考えており、これを読んでいるあなたも同様な想いを抱いていることを願っています。

 

ただ、私も「私達の幸せや安定」というものが、原発の存在の是非を問うことで得られるわけではないことは重々承知しておりますし、自然エネルギーへの代替によって「私達の発展」を目指したとしても、現時点では残念ながらそれがおよそ夢物語でしかないことも理解はしています。

 

 

ですからこの原発問題のより良い解決方法を探るために、脱原発か?原発推進か?の二者択一を考えるのではなく、「問題の本質」というものを考えることにしてみました。

 

そうすると原発問題は「人の活動と存在のために必要なエネルギーの問題」として考えなければならないことが浮かび上がってきます。

 

人の活動と存在のためのエネルギー問題であるということは、私がいつも問題提起している「食の問題」とも共通点がありそうです。

 

 

「原発問題」「食の問題」を並行して考えることにより、互いに共通しているであろう「問題の本質」をあぶり出してみることにしましょう。

 

 

 

・・・現在の私達は火力、原子力、水力のエネルギーを主に利用していますが、エネルギーの主たる調達手段である火力発電については、石炭や石油の消費によるCO2の発生から地球温暖化を進めてしまう恐れがあるということで、政府は火力に代わるエネルギー調達手段として原子力発電の推進を図ってきました。

 

原子力による熱エネルギーは膨大なエネルギーであるにも関らず、発電におけるCO2の発生量が極めて少ないため(原子力発電時に発生するCO2はゼロとみなされます)、地球温暖化防止に役立つと考えられているわけです。

 

しかしながら、発電時に発生するCO2の削減にやっきになったところで、私達が利用するエネルギーの際限のない増加から目を背けているようでは、私達が発生させ続けるCO2は結局は増加するばかりであるのが実際のところです。

 

 

なぜならヒトの存在とそのエネルギー活動は、必ずCO2(二酸化炭素)の排出を伴うものであり、それがヒトの宿命であるからです。

 

 

ヒトは呼吸によって空気中の酸素(O2)を体内に取り込み、食品として摂取した存在と酸素を燃焼させることによってエネルギーを生み出し、自身の存在および活動を可能としているわけですが、その結果としてヒトは必ずCO2を排出します。

 

 

ヒトの存在と活動が増加すれば増加するほど、CO2の排出もが増加してしまうというのが現実であり、それがヒトのみならず多くの動物の宿命だと言えるのです。

 

 

それとは対照的に、植物はCO2を吸収し光合成をすることによって自身の存在を確立しており、光合成の副産物として酸素(O2)を放出しています。

 

 

植物も呼吸による酸素の消費とCO2の排出はありますが、ヒトなどの動物と違って移動などによる活発な行動はしないため、その排出量は極めて微量です。

 

 

植物という存在はCO2の吸収量の方が圧倒的であり、その存在が増加すれば増加するほど酸素(O2)の排出が増加していくというのが植物の宿命であるわけです。

 

 

従来、ヒトなどの動物の存在が発生させるCO2の量と、植物が吸収するCO2の量における大気のバランスは、植物によるCO2の固定化の方向によって調和が保たれていました。

 

(余談ですが、植物が大気中に酸素を放出し続ける存在であるからこそ、酸素を取り込み活動する動物の存在が台頭してきたホメオスタシス~恒常性維持機能~が地球の活動として存在しています)

 

ですが近代以降(産業革命以降)、ヒトは化石燃料を利用する知恵を手にしたことにより、大気のバランスのみならず、地球上における様々な変化をも生じさせてきたのです。

 

 

次回、その事実を「食の問題」を例にとって説明してみましょう。

 

 

(原発問題と食の問題 其の二) につづく

 

 

 

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たいぞうの想い64にて、「健康を求めるのは、私達が楽しく生きるため、私達が幸せを得るためにそれが必要だから」という話をしました。

 

 

ただ、中には「楽しく生きるためなら、いちいち難しく考えずに面白おかしく食を楽しめばいいじゃないか、それのどこが悪いんだ?」と主張される方もおられます。

 

 

もちろん、本人が毎日面白おかしく食を楽しむことが幸せなんだと言い切るのであれば、その本人に向かっていちいちモノを言う必要など無いかもしれません。

 

 

ただ、忘れないで欲しいのは、健康を求める行為は”自分の快楽”のためだけにあるわけではないということです。

 

 

それは”人としての幸せ”、仕合わせを得るためでもありましょう。

 

 

”幸せ””仕合わせ”というものは、決して自分一人だけで得られるものではありません。

 

 

本当のシアワセを得るためには「自分以外の存在」が欠かせません。

 

 

そしてその自分以外の様々な存在が、自分と同様に健康であってこそ、私達は人生をより楽しむことができるのです。

 

 

本当の幸せ、本当に楽しい人生を求めるのであれば、相手の立場になって考える行為、つまり「思いやり」を忘れてはなりません。

 

 

自分が健康であること、健康であろうとすることは、自分のためばかりでなく自分以外の存在への思いやりの行為でもあるのです。

 

 

 

あなたが自分の好き勝手に食を楽しみ続け、肉体に支障をきたしてしまうようであれば、あなたを愛している人が深く傷付くことは当たり前のことでしょう。

 

 

あなたの恋人や親御さん、様々な縁者の方々が、あなたにできるだけ健康な姿でいて欲しいと思っているのは当然のことです。

 

 

あなたが自ら不健康に向かう姿を見続けることは、他の方々からすれば非常に不幸で残念なことなのですから。

 

 

 

私達は健康を求める行為が自分のためだけでなく、他者への思いやりでもあることを努々忘れてはなりません。

 

 

人として健康に生きようとする姿を、愛する人達、次世代の人達に魅せていく。

 

 

そんな「思いやり」があって初めて、人は本当の仕合わせを得ることが出来るのではないでしょうか。

 

 

そして他人だけでなく、様々な生き物達、様々なモノやコト、そして地球という存在をも思いやって生きることで、私達は本当の幸せを得ることが出来るのではないでしょうか

 

 

他の存在への思いやりの心を持たないまま、自分の快楽のためだけに生きれば、他の存在を犠牲にしたラクへの依存や怠惰の方向に流されてしまうものです。

 

 

私達は他者、他の存在への思いやりがあって初めて、自律のある本当の健康を創造することができる。

 

 

私はそう考えています。

 

 

 

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玄米屋たいぞう便り第18号「ダイエットと自己肯定」 

 

玄米というと「ダイエットに役立つ食品」というように連想される方も少なくありません。

 

たしかに玄米ごはんを食習慣に取り入れることがダイエットに役立つ、ということは科学的ないし論理的に証明することはできます。

 

 

ただ、本当のダイエットというものを考えれば、十人十色、10人いれば10人それぞれに違ったダイエット方法論があるものです。

 

マスメディアが喧伝するようなダイエット食品やダイエット法に、全ての人達に共通した効果があると思い込むことはあまりよろしくありません。

 

それは玄米でも同じことでしょう。

 

一時的にやせるだけで良いのなら、それは現代社会では様々な健康食品やダイエット法が溢れておりますので、そうしたモノに頼るのも別に結構だとは思います。

 

ですが、よく考えていただきたいのですが、ダイエットを求める本当の目的は「痩せるため」ではないはずです。

 

そうではなく、痩せなければならない、もしくは痩せたいという願望の根元には、必ず何かしらの理由が人それぞれにあるはずです。

 

もし「今の自分が気にいらないから」とか「今の私のままでは駄目だから」などといった理由からダイエットを求めるのであれば、どれほど優れたダイエット食品やダイエット法があろうとも、それに成功し理想の自分になることは難しいかもしれません。

 

自分が痩せたい理由を認識せずに、今の自分を否定的に思いながらダイエットに励んでも、一時痩せることに成功しても、その自己否定の心は解消されないままである場合が多いからです。

 

そしてその「自己否定の心」こそが、過度のダイエットやリバウンド現象を引き起こしてしまう原因となってしまいます。

 

 

本当にダイエットを成功させたいのであれば、

 

「自分はなぜ痩せたいのか?」

 

その動機、理由を自分自身で探りましょう。

 

そして、その動機に叶った自分の姿、より良い自分の姿をイメージし、それに向かって自分の生活習慣を変えていこうとすることが本当に大事なことなのです。

 

 

太った自分や、好きになれない自分とは、実はそれまでの自分の生活習慣によって形成されてきました。

 

決して自分そのものが悪いわけではありません。

 

「自分の習慣」が自分を育んでいるのです。

 

また、自分では気づくことが出来ない習慣も数多くありますので、決して自分を否定する必要などはないというわけです。

 

しかし人という生物は自らで習慣を変えることが出来る存在です。

 

自分の習慣を客観的に省みた上で、その習慣を変えていきましょう。

 

新しい習慣こそが自分が望む「より良い自分」を育んでくれるのです。

 

仮にうまくいかなかった時があったとしても、そのより良い状態になろうとするあなたが前向きで素晴らしい存在であることは誰の目にも明らかです。

 

そうやって自分そのものを大事にする心こそが、自らの生活習慣をより良い方向に変えるために役立つ「真の原動力」となりえます。

 

その原動力はダイエットだけでなく、糖尿病などの病気の改善、そして地球規模での環境の改善、ひいてはより良い私達の社会を育むために役立つ力となる、

私はそう考えています。

 

 

あなたはそのままで素晴らしい存在です。

 

大事なことは自分の習慣を変えることなのです。

 

 

 

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